「重くて持ち歩けない」『anan』よりも売れた! 名古屋タウン誌戦国時代を勝ち抜いた『ケリー』黄金期
【不定期連載~「名古屋タウン誌クロニクル」『ケリー編』②】
名古屋のタウン誌の歴史をふり返る不定期連載。第1弾『ケリー』編の第2回。(第1回はこちら→「“出版社をつくるつもりじゃなかった”。創刊38年 名古屋のタウン誌『ケリー』誕生秘話」 2024年5月25日)
1987年に創刊した名古屋のタウン誌『ケリー』。当初は我慢の時期が続きましたが、90年代に入って「突然、売れ始めた」(出版元のゲイン創業者で現・会長の藤井英明さん)と売上は上向きに。男女雇用機会均等法の施行で女性の社会進出が進み、かつ週休二日制が浸透して、女性がお金と時間を自由に使いやすくなったことがその要因、と藤井さんは分析。グルメを中心とした街の情報を網羅する内容が、メインターゲットの女性のライフスタイルとシンクロするようになったのです。
様々なターゲットに向けたタウン誌が群雄割拠した戦国時代
名古屋のタウン誌シーンが最も百花繚乱だったのは、ちょうど『ケリー』が創刊した80年代半ばから90年代前半。1984年には現在も存続する『チーク』(創刊時は中部経済新聞が刊行、翌年から名古屋流行発信)が創刊。『ケリー』と同じ87年には『ブルゾン』(プロトコーポレーション)、『キャプラ』(中央出版)という大学生向けタウン誌も相次いで創刊します。名古屋流行発信は男性向けの『カポネ』、女子中高生向けの『シエスタ』、ママ向けの『キャラコママ』など、様々なターゲットに向けて全方位型出版を展開します。
実は筆者が新米編集者として初めて携わったのも、1988年に創刊した『オフ!ガイド』というタウンレジャー誌でした(ナゴヤマガジン発行、89年休刊)。その他にも、ミセス向けライフスタイル誌、実話系雑誌など、数号で姿を消してしまう短命タウン誌も枚挙に暇がないほどありました。さらには1988年には『ぴあ中部版』、1996年には『東海ウォーカー』と大手出版社の地域版も名古屋へ進出し、名古屋はタウン誌戦国時代に突入します。
競争が激化する中で勢力図に異変も。1972年に創刊し、一時は名古屋No.1の売れ行きを誇った『ナゴヤプレイガイドジャーナル』が1990年8月をもって休刊。同誌のライバルだった『アワーシティ』(前身は1976年創刊の『ナゴヤ百撰』)も1995年11月号で休刊と古株のタウン誌が姿を消していきます。
街頭販売で1000部超を販売。1号あたり5千万円の収益
『ケリー』はこの激戦の時代を勝ち抜き、90年代後半に絶頂期を迎えます。部数はぐんぐん伸び、それに合わせて広告もどんどん増えて雑誌が分厚くなっていきます。1991年3月号は196ページだったところ、1998年1月号は実に498ページとおよそ2・5倍のボリュームに。「重くて持ち歩けない、とよくいわれました(苦笑)。製本の都合上これ以上厚くできなくて、広告をお断りしていたくらいでした」と藤井さん。当時は「名古屋の書店ではマガジンハウスの『anan』よりも売れて、1号あたり5000万円ほどの広告収入がありました」とふり返ります。
「この当時はよく街頭で販売キャンペーンもやっていました。協賛企業のドリンクや化粧品の試供品をつけて、名古屋駅や金山総合駅などで販売するんです。金山駅で1300冊売った、という記録も残っています」とは現・管理部部長の山本寿彦さん。読者も熱かったからこそ広告の費用対効果も高く、企業もこぞって『ケリー』への出稿を熱望したのです。
この絶頂期の特集をかいつまんでふり返ってみましょう。「ナゴヤ便利図鑑」(1993年5月号)、「さすが!のデパート!!」(1993年7月号)、「秋の行楽がお待ちかね」(1993年11月号)、「これでもか!!グルメ!!」(1993年12月号)、「ナゴヤの基本!地下鉄駅別周辺ガイド!!」(1994年4月号)、「究極のグルメリレー」(1998年1月号)、「ナゴヤ16区完結編」(1999年5月号)・・・。グルメを基軸としつつ、街ネタ、ショッピングネタを取り上げるという年間のルーティーンが見て取れます。
多忙を極めて夜中に号泣。ライバル誌とは火花バチバチ
創刊当初の苦しかった時代から、イケイケの黄金時代までを現場で体感してきたのが2代目編集長の水越久恵さんです。水越さんは創刊間もない1987年にアルバイトスタッフとして『ケリー』に参加し、1993年から1997年までの4年半、編集長を務めました。
「東京の編集者がつくっていた創刊当時の『ケリー』を見てすごくオシャレ!と思って、バイトさせてください!と押しかけたんです。最初は雑誌の知名度がないので、取材のアポを入れても『ケリー?何それ』と断られてしまう。少しでも人の目にふれられるようにと、美容院や歯医者さんとかに配って置いてもらえるよう頼み込んでいました。カバンに20冊くらい詰め込んで、地図を広げて歩き回ってましたね」。現在は大須で飲食店を経営する水越さんは、下積み時代をふり返ります。
「初期の頃は編集部員が2人しかいなくて、50ページずつつくっていました。いつも2人で夜中まで編集部にカンヅメで、ある時、同僚のTさんが“明後日締め切りなのに何も手をつけてないページが3ページ残ってる”といって夜中にワーッと泣き出すんですよ(笑)」
そんなブラックな労働環境も、「24時間戦えますか」(スタミナ飲料のCMソングが大ヒットしたのはまさに1989年)の時代においては、決して特別ではない“会社あるある”でした。このようなハードな経験を得て、水越さんが編集長に抜擢された頃には『ケリー』は急成長モードに入っていました。
「刷った分が全部売れちゃうくらいよく売れたし、この頃は取材のアポ取りも『ケリー』と名乗れば断られることはほぼなかったですね。ちょうどかぶらやグループとかゼットンとかおしゃれな飲食店の会社が出てきて、みんな広告を出してくれてました。同じ女性誌の『チーク』も同じように売れていて、飲食店のレセプションで会っても目を合わさないくらいお互いライバル視してました。だから私、『チーク』の編集長だったKさんの顔を一度もちゃんと見たことがなくて、金髪だったことしか覚えてないんですよ(笑)」
過酷な業務に耐えながらもパワフルに街へくり出し、ライバル誌とは火花バチバチ。こんな当時のエピソードからも、若いスタッフらが熱量をもってタウン誌づくりに取り組んでいた時代の空気がうかがえます。
期間限定飲食店も大ヒット
看板雑誌である『ケリー』が売れることで、その他の業務にも相乗効果をもたらします。「読者アンケートを集めて、名古屋独自の消費者の意識を分析し、化粧品など様々な業種のクライアントと共有する。それを元にした企画が立ち上がり、誌面で展開したりイベントを打つ。『ケリー』を中心に様々な好循環が生まれていました」(藤井さん)
象徴的な事業が期間限定のイベント飲食店です。1991年の「とらばーゆ赤道直下市場・パラトピ」を皮切りに、1992年「キリンビールファクトリーフロンティア」、1994年「万国屋台」などの期間限定飲食店を企画運営。いずれも連日行列ができる大ヒットとなります。1995年にいたっては「でらうま屋」「P.S愛してるガーデン」と2つのイベント飲食店を出店。しかも、「でらうま屋」はキリンビール・東海テレビ・松坂屋・博報堂、「P.S愛してるガーデン」はアサヒビール・中京テレビ・三越・電通と、ライバル企業同士の座組の飲食店をいずれもゲインがとりまとめていたというから驚きます。名古屋中の企業が、『ケリー』を看板にするゲインの元に集まっていたのです。
1990年代後半以降、ゲインは『ケリー』の後に続く媒体も次々と立ち上げます。1997年、OL向け無料情報誌『フリーマガジンami(アミ)』を中日新聞社と提携して創刊。1998年、コミュニティFM局「FM DANVO」を開局。2001年、CBCと提携してヘアサロン情報サイト「ビューティーガネット」をサービスイン、2002年にはタウン誌としては他に例のないセレブミセスマガジン『メナージュケリー』を創刊。これらのマルチメディア展開は『ケリー』に収まりきらない広告の受け皿の役割も果たし、また他社との提携事業も多く、いかに同社が引く手数多だったかを表すものでもありました。
バラエティに富んだタウン誌が群雄割拠していた80~90年代を経ても2000年前後になってもなお、名古屋はタウン誌出版が盛んというイメージが強かったのは、『ケリー』、そして出版元のゲインが様々な街のトレンドを生み出し、牽引していたからでした。
(「名古屋タウン誌クロニクル~『ケリー』令和~未来編」に続きます ※近日公開)