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大井川での活躍後、山中温泉に里帰りしたアルミカー「しらさぎ」 北陸鉄道6010系

清水要鉄道・旅行ライター
北陸鉄道6010系

 北陸新幹線の加賀温泉駅からバスで約30分、大聖寺川の谷を遡った山間にあるのが、加賀四湯の一つ・山中温泉だ。今では加賀温泉駅からバスまたはタクシーで訪れるのが一般的になっている山中温泉だが、半世紀前までは大聖寺駅との間を結ぶ小さな電車が走っていた。昭和46(1971)年7月11日に廃止された北陸鉄道山中線だ。

 今は石川線と浅野川線の2路線が残るのみの北陸鉄道だが、かつては北陸本線の駅と加賀四湯(山中、山代、片山津、粟津)を結ぶ路線網を張り巡らせており、それらの路線は総称して「加南線」と呼ばれた。そんな加南線で活躍した車両・6010系が今も「道の駅 山中温泉湯けむり健康村」の駐車場でその姿を留めている。

北陸鉄道6010系
北陸鉄道6010系

 山中線は明治時代に馬車軌道として開業した路線で、大正時代には改軌と電化を行って、石川県で最初の電化路線となった。戦時中に県内の他の鉄道会社と合併して北陸鉄道の一路線となっている。戦後も山中温泉へ向かう多くの行楽客を運び続けたが、車社会化の進展により乗客が減少。特急停車駅の加賀温泉駅への集約によって、大聖寺駅に特急が停まらなくなったことでとどめを刺され、70年以上に渡る歴史に幕を下ろした。

北陸鉄道モハ3752 現在は千葉県いすみ市のポッポの丘に保存
北陸鉄道モハ3752 現在は千葉県いすみ市のポッポの丘に保存

 最後は廃止に追い込まれてしまった加南線だが、有名温泉地への路線だけあってかつては北陸鉄道のドル箱路線であり、新型車両が優先的に導入されていた。昭和26(1951)年4月5日より営業運転を開始したモハ5000形は近代的な外観にクロスシート装備という豪華な車両で、後にロングシート化されて石川総線に転じ、モハ3750形として21世紀まで活躍していた。モハ5000形あらためモハ3750形は幸運にも2両とも保存されている。

大井川鐡道へ譲渡後の6000系(Wikipediaより)
大井川鐡道へ譲渡後の6000系(Wikipediaより)

 そんなモハ5000形に替わる新たな看板車両として昭和37(1962)年7月7日より運行を開始したのが6000系「くたに」だ。単行だったモハ5000形とは違い2両固定編成で、多くの行楽客を一度に運ぶことができる。ロマンスシート(進行方向に向かって二人で座れる転換クロスシート)を搭載した「ロマンスカー」で、機器面でも数々の新技術を導入した画期的な車両だった。6000系の導入により、モハ5000形は看板車両の座を譲って石川総線に転じている。

保存される6010系「しらさぎ」
保存される6010系「しらさぎ」

 6000系導入の翌年、昭和38(1963)年7月18日には6010系「しらさぎ」が運行を開始した。日本では2番目となるアルミ合金製車体の車両だが、台車や機器は経費節減のために旧型車両(飯田線の前身・伊那電気鉄道からやってきたもの)から流用したものだった。それら旧式な機器が6000系のような鋼製車体の重さに耐えることができないことから、鉄より軽いアルミ製車体が採用されている。また、国道8号線改良に際して廃止された粟津線の補償金もアルミ車導入のきっかけだという。

 車体だけでなく機器面も近代的な6000系と違い、時代を先取りしたギラギラ光る車体に旧式な機器というちぐはぐな組み合わせだった6010系。だが、その機器の古さが後に運命を好転させるきっかけとなるのである。

しらさぎ
しらさぎ

 列車愛称の「しらさぎ」は山中温泉に伝わる長谷部信連の白鷺伝説に由来する。 

 長谷部信連(はせべ・のぶつら)は平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した武将だ。以仁王に仕えてその挙兵に際して活躍し、平家滅亡後は源頼朝によって能登国鳳至郡大屋荘の地頭に任じられて穴水城を築城したとされる。その信連が山中を訪れた際、白鷺が脚の傷を湯で癒しているのを見て温泉を発見。一度は廃れていた山中温泉を再興した。この伝説にちなんで信連は「山中温泉再興の父」として神社に祀られ、白鷺は山中温泉のシンボルとなっている。名古屋と北陸を結ぶ特急「しらさぎ」もまたこの白鷺伝説にちなんだ列車名だ。

大井川鐡道へ譲渡後の6010系(Wikipediaより) 晩年は前照灯が増設されていた。
大井川鐡道へ譲渡後の6010系(Wikipediaより) 晩年は前照灯が増設されていた。

 白鷺伝説の名湯への路線に華々しく登場した6000系・6010系だったが、目まぐるしい時代の変化によりわずか10年足らずで路線廃止の憂き目に遭ってしまう。そんな2本の電車に目を付けたのが、同じ名鉄系列だった静岡県の大井川鐡道だった。6000系と6010系は2本揃って大鐵に第二の職場を見出すことになる。ただし、大鐵での2本の運命は対照的だった。

 その背景にあったのが、北鉄と大鐡の電圧の違いである。北鉄の600Vから大鐵の1500Vに対応させるためには改造が必要なのだが、新しい機器を搭載していた6000系は改造が困難だったのである。結果的に6000系は電装を解除してトレーラー車となり、他の車両(モハ305→モハ1906)に牽引されて3両編成で走行する形を取ることとなった。その3両編成は通り抜けできない構造ゆえにワンマン運転にも対応できず、昭和59(1984)年のワンマン化以降は予備車となり、平成6(1994)年に運用離脱、平成8(1996)年3月30日に廃車となっている。大鐵で赤石山脈にちなんだ「あかいし」に改称されてからの6000系の後半生は、華やかな山中時代とは対照的に、その高性能を発揮できない悲惨なものだった。人間に例えるなら、学生時代にスポーツで活躍してスター的存在だった人が、社会に出てからは職場に恵まれず、身体も壊して・・・とでもいったところだろうか。

6010系に残る大井川時代の標記
6010系に残る大井川時代の標記

 悲劇的な結末を辿った6000系と対照的に、6010系の大鐵時代は恵まれたものだった。昭和46(1971)年10月の運行開始当初は6000系同様、トレーラーで、モハ308に牽引されないと走れない存在だったが、昭和47(1972)年3月に昇圧改造を行って単独走行が可能となった。旧式で構造も単純な機器の方が昇圧改造には有利に働いたのだ。その後の6010系は銀色の車体を輝かせて大鐵でも大いに活躍。改名された「くたに」と違い、白っぽい車体に「しらさぎ」の名が合うためか改名されることなく走り続けた。時代に合わせてワンマン化、車内への自販機設置、機器の交換、前照灯の増設などの改造などを重ね、大鐵では30年に渡って現役であった。

 ちなみに前照灯の増設だが、中央の一灯では照度不足であることから実施されたもので、富山地鉄の廃車発生品を再利用していたという。増設後は両端のみ点灯して中央は使われなくなった。後付け感もあって一部のファンからは不評だったそうだが、筆者個人としては増設後の姿にも改造を重ねた車両の持つ魅力を感じる。

保存される6010系「しらさぎ」
保存される6010系「しらさぎ」

 兄貴分である6000系の引退後も6010系は活躍を続けた。平成に入ると大井川鐡道にも南海や京阪、近鉄から冷房車両が入線、非冷房な上に足回りも古い6010系は次第に活躍の場を狭めていく。そんな中、平成10(1998)年11月5日、6010系を悲劇が襲う。地名~笹間渡(現:川根温泉笹間渡)間のトンネルで脱線事故を起こしたのだ。伊豆箱根鉄道から来た後輩の1000系と組んで4両で運用中の出来事で、機器の老朽化から廃車が予定されていた6010系はそのまま復帰することなく廃車となるものと思われた。しかし、相方だった1000系の損傷が想像以上に大きかったことから、6010系の延命が決まり、1000系は大鐵での活躍わずか7年で廃車されている。

 そうして危機を乗り越えた6010系だが、さすがに寄る年波には勝てず平成14(2002)年10月18日に39年に渡る活躍に幕を下ろす。その後は千頭駅構内に留置されていたものの、平成17(2005)年になって山中温泉に里帰りすることになった。山中温泉のある江沼郡山中町が加賀市と合併することとなり、その最後の記念に、縁のある6010系を保存することを大井川鐡道に申し入れたのだ。大鐵はその申し入れを快諾し、無償譲渡。34年ぶりの里帰りが実現した。その後、山中線での現役時代に近づけるべく増設された部品が撤去されているが、検査標記や車内の貼り紙等は大鐵時代のままだ。

 製造から61年、引退から22年、保存されてからすら早くも19年が経つ6010系「しらさぎ」。保存場所である道の駅が休業中の上、車体にも汚れが目立ち、今後が少々気にかかるところだが、山中線の歴史を今に伝える貴重な存在として末永く残されることを願うばかりだ。

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鉄道・旅行ライター

駅に降りることが好きな「降り鉄」で、全駅訪問目指して全国の駅を巡る日々。

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