サーカスの看板で窓口を塞がれた赤い三角屋根の洋風駅舎 電鉄石田駅(富山県黒部市)
富山県呉東に路線網を広げる富山地方鉄道には、「電鉄」を冠する駅名が四つある。「電鉄富山」「電鉄魚津」「電鉄石田」「電鉄黒部」の4駅だ。このうち、電鉄石田駅を除く3駅はいずれも近接するJRやあいの風とやま鉄道の駅と区別するべく「電鉄」を冠しているものだが、電鉄石田駅だけは近くに石田駅がない。全国を見てみると福岡県の日田彦山線と京都府の京都市営地下鉄東西線、山形県の山形交通三山線(廃止)に石田駅があるが、これらと区別するなら「越中石田」でもよさそうなものだ。なぜ「電鉄石田」という駅名になったのだろう。
駅名の謎を紐解くべく、まずは駅の歴史を見てみよう。電鉄石田駅は、昭和12(1937)年5月31日、富山電気鉄道の「石田第二信号所」として開業した。「第二」なのは、当駅より700メートル西三日市(現:電鉄黒部)寄りに「石田信号所」があったことによるものだが、随分と即物的な名前である。石田の名は、当時の所在地である下新川郡石田村に由来する。
昭和15(1940)年6月1日には駅に昇格して「電鉄石田」となったが、同時に石田信号所と石田港線が廃止されている。石田港線とは黒部鉄道(富山地鉄本線の前身の一つ)が昭和5(1930)年4月10日に開業させた路線で、国鉄三日市駅(現:あいの風とやま鉄道黒部駅)と北前船で栄えた石田港を結んでいた。魚津方面から伸びてきた富山電気鉄道と接続する計画もあったものの、宇奈月方面へは三日市駅での乗り換えが必要になることから、富山電気鉄道は石田港線と平面交差、国鉄線を築堤で越えて西三日市(現:電鉄黒部)で黒部鉄道と接続するルートに変更された。接続の夢を絶たれた石田港線は、平面交差が危険なことや乗客減もあって、わずか10年で廃止となり、その代わりとして電鉄石田駅が開業している。
電鉄石田駅が「電鉄」を冠しているのは、石田港駅と区別するためとされているが、黒部鉄道が開業させた石田港駅と違い、富山電気鉄道が開業させた駅ということを強調する意図もあったのではなかろうか。黒部鉄道と富山電気鉄道は最終的には合併して富山地方鉄道という一つの会社になったものの、石田港線の廃止を巡っては両社の間で一悶着あったとのことだ。
ちなみに、石田港駅の駅舎は廃止後に経田(きょうでん)駅に移築されて今なお現役だ。
電鉄石田駅の現在の駅舎は昭和33(1958)年4月25日に建てられたもので、今年で築66年だ。大正・戦前期の駅舎も多く残る富山地鉄の駅舎の中ではそれほど古いものではないとはいえ、半世紀以上もの歴史を重ねている。赤い三角屋根の洋館といった佇まいで、タイル張りの車寄せとその上に三つ並んだ縦長の窓がモダンだ。駅舎の裏手、線路との間のわずかな空間には植え込みと池がある。有人駅時代には駅員が手入れをしていたのだろう。
駅舎内は天井が高く、待合室はこじんまりとしてはいながらも、あまり窮屈な印象は受けない。無人化で使われなくなった窓口はベニヤ板とサーカスの告知看板で塞がれている。使えるものは捨てずにリサイクル、SDGsのお手本のような光景だ。
この看板、年は省略されているが、いったいいつのものなのだろうか。サーカスといえば、昭和の小説や漫画などではたまに町にやってくる娯楽として描かれているので、昭和の娯楽の一つという印象だ。この看板の「キグレサーカス」は、観客減少による業績悪化から平成22(2010)年10月19日に倒産している。最新の貼り紙と、10年以上も前に消えたサーカス団の看板が共存する駅舎内は、まるでタイムマシンのようだ。
ホームは相対式2面2線で、ホーム間は構内踏切で結ばれている。駅舎側の1番のりばが電鉄黒部・宇奈月温泉方面、反対側の2番のりばが新魚津・上市・電鉄富山方面だ。ホームの上屋も時間が止まったかのような古い木造のものである。
消えたサーカス団の看板が残る、赤い三角屋根の電鉄石田駅。富山地鉄には魅力あふれる個性的な駅舎が多いが、電鉄石田駅もそんな駅の一つだ。地鉄電車で訪れて駅の歴史に思いを馳せるのもいいだろう。
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