上杉氏ゆかりの魚津城と米騒動発祥の地がある港町の高架駅 富山地方鉄道本線 電鉄魚津駅(富山県魚津市)
富山県東部・新川地方の中心都市で、蜃気楼やホタルイカで有名な魚津市。その中心部にはあいの風とやま鉄道と富山地方鉄道本線の二つの路線が通っており、山側をあいの風とやま鉄道、海側が富山地鉄という形で並走している。そんな並走区間にある駅の一つで、魚津市の旧市街の玄関口にあたるのが電鉄魚津(でんてつうおづ)駅だ。
電鉄魚津駅は昭和11(1936)年6月5日、早月(現:越中中村)から延伸してきた富山電気鉄道の終点として開業。国鉄(現:あいの風とやま鉄道)魚津駅と区別するべく、駅名に「電鉄」を冠している。同年8月21日には隣の新魚津駅まで延伸し、途中駅となった。
電鉄魚津駅は昭和42(1967)年9月1日に日本海側では初めての高架駅となり、9月15日には駅併設の「電鉄魚津ステーションビル」も竣工した。4階建ての駅ビルは1階から3階にデパートが入居し、3階に改札口と駅事務所、4階にバス乗務員の仮泊所が設けられた立派なもので、最盛期にはテナントが24店舗も入居していたという。
そんな大都市の駅にも引けを取らない立派な駅ビルを持っていた電鉄魚津駅だが、中心市街地の空洞化と建物の老朽化により、電鉄魚津ステーションデパートは平成11(1999)年3月に閉店。以降、駅ビルは駅設備のある3階を除いて閉鎖され、14年に渡り放置されることとなった。
バリアフリー化や周辺環境改善を目的として、現在の駅舎が完成したのは平成25(2013)年6月3日のことで、翌6月4日より供用開始となり、その後旧駅ビルの解体工事が行われ、跡地に駅前広場が整備された。現駅舎は3階建てで、1階に改札口、2階(旧駅ビルの3階の高さに相当)に待合室とホームがある。
高架のホームは1面1線とシンプルな造りだ。前述のように日本海側では初めての高架駅で、昭和57(1982)年11月15日に上越新幹線が開業するまでは日本海側で唯一の高架駅でもあった。富山県内においては平成27(2015)年3月14日の北陸新幹線金沢延伸まで唯一の高架駅だったが、県内初の高架駅が県庁所在都市ではなく県内4番手(当時)の都市にできるというのはなかなか珍しい事例ではなかろうか。
ホームの目の前にはあいの風とやま鉄道の複線があり、時折列車が高速で通過していく。富山地鉄とあいの風とやま鉄道は、中滑川駅の手前から新魚津駅の先まで、約12キロに渡って並走しており、この間富山地鉄には8駅、あいの風とやま鉄道には3駅がある。駅間が長く速いあいの風とやま鉄道に対し、地鉄はこまめに停車して小さな需要も拾っていくといった印象だ。
ここで、電鉄魚津駅の周辺にも目を向けてみよう。
駅から西南に行くと、平成30(2018)年4月に閉校となった旧:魚津市立大町小学校がある。ここは建武2(1335)年に椎名氏が築いたとされる魚津城の跡で、椎名康胤が上杉謙信に反旗を翻して追われると、上杉氏の越中における拠点の一つとなった。
天正10(1582)年の魚津城の戦いでは、柴田勝家が上杉方の守る魚津城を包囲し、落城させたものの、その前日には京で本能寺の変が起きており、それを知った勝家は撤退せざるを得なかった。勝家の撤退により空いた魚津城はほどなく上杉方の須田満親に奪還されたものの、清須会議により越中の新たな支配者となった佐々成政に明け渡されている。成政の肥後移封後は、再び上杉方に戻るが、文禄4(1595)年には前田利家の息子・利長の支配下に入った。元和年間の一国一城令での廃城後は、加賀藩の「古城御蔵屋敷」として使われていたとされる。
明治以降は学校として使われてきたが、閉校となり、現在は後者の一部解体工事が行われている。来年度には文化財の試掘工事が行われ、その後大町地区コミュニティセンターが整備される予定だ。
城跡からさらに西へ、海の方へ行ってみよう。魚津城の西南で富山湾に注ぐ角川(かどかわ)は、能登から鹿が渡ってきたことから「鹿途川」と名付けられたとされ、のちに「角川」と表記するようになった。角川書店創業者の角川源義は、中新川郡東水橋町(現:富山市)の出身で、その苗字の「角川」はこの川が由来とされる。魚津の街を流れるこの小さな川が、出版大手・KADOKAWAの社名のルーツなのだ。
角川河口のすぐ北には「米騒動発祥の地」がある。大正7(1918)年7月、米の買い占め・売り惜しみによる米価高騰に苦しんだ主婦ら数十人が、米の積み出しを阻止した「魚津米騒動」の舞台となったところで、当時の「旧十二銀行 米蔵」が保存されている。この米騒動は全国に波及し、寺内正毅内閣の退陣と日本初の政党内閣である原敬内閣の成立に繋がった。この魚津での米騒動は話し合いによって行われたもので、世間でイメージされるような暴力的なものではなかったということだ。
今年の夏も米の供給量不足と需要増による品薄が「令和の米騒動」として話題になったが、メディアやインフルエンサーの不安を煽るような言説や、転売ヤーによる買い占めが事態をいたずらに大きくしてしまったような印象を受ける。案の定、今夏の一件は早くも忘れられつつあるが、不安を煽る報道が原因による買い占めという点では、大正の米騒動よりも昭和のオイルショック時の品薄の方が事例として近いのではなかろうか。
上杉氏と柴田勝家の戦いの舞台になった魚津城や、米騒動発祥の地がある港町・魚津。日本海側初の高架駅・電鉄魚津駅で降りて散策してみてはいかがだろうか。
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