滑川・魚津に4つもある「加積」がつく駅名の由来は? 富山地方鉄道本線 西加積駅(富山県滑川市)
富山県呉東に路線網を広げる私鉄、富山地方鉄道。その路線図のうち滑川の辺りを眺めてみると「加積(かづみ)」がつく駅名が多いのに気が付く。「中加積」「西加積」「浜加積」「早月加積」の4駅が滑川市街の3駅(西滑川・中滑川・滑川)を両側から挟むように並んでいるのだ。
現在の自治体名や住所地名にも残っていないこの「加積」がつく駅名は一体なにに由来しているのであろうか。
まずは滑川市の歴史を紐解いてみよう。滑川市・魚津市の辺りは近世、「加積郷」と呼ばれており、「加積」はいわゆる広域地名だった。滑川市は昭和29(1954)年3月1日に市制施行されるまでは中新川郡滑川町だったが、その前年の昭和28(1953)年11月1日に周辺の村を合併しているのだ。その時、滑川町と合併した6つの村の名前は以下の通りだ。中加積村、西加積村、北加積村、東加積村、早月加積村、浜加積村。
ゲシュタルト崩壊しそうなほどに「加積」だらけだ。この6つの村のうち「中」「西」「早月」「浜」の「加積」は富山地鉄の駅名として残っている。合併に際しては新町名候補として「滑川」と「加積」が最後まで残っており、もしかしたら加積市が誕生して、その玄関口が「加積市駅」「電鉄加積駅」となっていたのかもしれない。
ただし、「加積」のつく村はこの6つだけではなかった。中新川郡にはほかに南加積村と山加積村があり、昭和28(1953)年9月10日の合併で上市町の一部となっている。昭和31(1956)年6月1日には旧:山加積村の一部を滑川市に編入しており、最終的には滑川市域に7つの「加積」が揃うことになった。
さらに、なにも冠さない無印の「加積村」が隣の郡である下新川郡にあったのだというのだからややこしい。こちらは現在の魚津市で、魚津駅の約2キロ東にある。
駅名や公民館名にその名を残すこれらの「加積」を地図で見てみると位置関係も複雑で、魚津市の加積だけがポツンと離れて北にあったり、北加積が浜加積の南にあったりという有様だ。そこまで位置関係を厳密に気にして付けているという感じではない。これらの村名は明治21(1889)年4月1日の町村制で生まれたもので、それ以前の村名と被らないようにとの苦心の中で生まれたのであろう。
町村制では10近い村が合併して1つの村ができたが、そうしてできた村に命名する際、多くの人に納得してもらうために広域地名である「加積」を採用したのではないかと思われる。たとえば、西加積村の場合、旧村名から取って「梅沢村」とすれば、それ以外の旧村から苦情が出るだろうし、他の旧村名を採用した場合も然りだ。
もっとも、こうして生まれた「加積」のつく村名だったが、昭和の大合併により自治体名としてはあっさり消滅してしまう。これらの旧村名が残ったのは公民館や郵便局、学校、そして駅の名前の上のみで、住所地名としては残ることはなかった。西加積駅の所在地を見てみると、「富山県滑川市下梅沢」で、この「下梅沢」は明治の町村制で中新川郡西加積村が成立するまで存在した、中新川郡下梅沢村の名を残す地名である。
「加積」について少々語りすぎてしまったが、ここで西加積駅の歴史も見てみよう。西加積駅は、大正2(1913)年6月25日、立山軽便鉄道が滑川から上市までを開業させた際に「梅沢」駅として開設された。立山軽便鉄道はその名の通り軌間762ミリの軽便鉄道で、滑川駅・上市駅ともに現在とは違う位置にあった。梅沢駅は大正10(1921)年2月20日に村名に合わせて「西加積」に改称されている。立山軽便鉄道は立山鉄道への改称を経て富山電気鉄道に合併、電化・改軌・ルート変更により、昭和6(1931)年11月6日に現在の姿の原型が出来上がった。
西加積駅はホーム上に年季の入った木造待合室があるが、この待合室の築年は不明だ。少なくとも、電化・改軌後に造られたものだろう。入口に扉はないが、古びている割にきちんと手入れがされているため、安心して列車を待つことができる。
地域の足として111年の歴史を重ね、昭和の大合併で消えた村の名を今に伝える西加積駅。かつて東急大井町線で活躍していた銀色の電車も、富山にやってきて早11年。小さな無人駅や田園風景にすっかり馴染んだ印象を受ける。
多種多様な駅を楽しめる富山地鉄の駅を各駅停車でのんびり巡ってみるのはいかがだろうか。