「社会の変え方」を教えていない日本社会で、今後政治的暴力事件が増えるのではという懸念
4月15日、岸田文雄首相が衆院和歌山1区補選の応援演説会場を訪れた際、演説台に向かって爆発物が投げ込まれた。
首相は避難し、演説は中止となった。
岸田首相の身の安全が確保されたことは救いだが、2022年7月の安倍元首相銃撃事件は記憶に新しい。
アメリカやブラジルでも、議事堂襲撃事件が起こるなど、政治的暴力事件が続いている。
その理由は、世界的に先行きが不透明で、不安が高まりやすい現代社会、資本主義の浸透による格差拡大、SNSによる動員のしやすさ、フェイクニュースの拡散など、様々な点を挙げることができる。
近代社会が手にした、非暴力的な手段で社会を変える「民主主義」ではなく、暴力的な行為で社会を変えようとする。
それは民主主義の放棄を意味し、人類の叡智を捨てるようなものだ。
「社会の変え方」を教えていない日本の教育
しかし、日本において、今後こうした政治的暴力事件が続いてしまうのではないかと懸念している。
それは、日本の教育では、非暴力的に、民主的なやり方でどう社会を変えられるかを十分に教えていないからだ。
もちろん選挙の基本的な仕組みは教えているが、投票部分にフォーカスが当てられすぎており、具体性は乏しい。
他の先進諸国で教えているような、ロビイング(陳情)やデモ、メディアの活用など、「社会の変え方」は教えていない。
また子どもの権利を教えていない、実践もしていないために、「自分は社会を変えることができる」という感覚が極めて乏しい。
結果的に、政治に参加する人は少なく、諦め感が漂っているのが現状だ。
一般市民が政治に関わらなくても、生活が比較的安定していたこれまでの日本社会だったらそれでも問題はなかったかもしれない。
しかし、今の日本が衰退しているのは誰の目から見ても明らかであり、今後生活に苦しむ人が多く出てくることは想像に容易い。
そうなってくると、「社会を変えたい」という欲求が高まってくるわけだが、その時に、民主的な形で社会を変える方法を知らなければ、暴力的な手段を行使するかもしれない。
ネット上でよく言われる「無敵の人」の誕生である。
無敵の人=社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味する。
こうした暴力を防ぎ、日常的に変化を起こしていくために必要なのは、民主主義の強化である。
対話を通して、様々な人々の課題や不満を解消していく(社会から排除される人々を減らしていく)。
そうした実践の積み重ねが社会として作れなければ、一気に不満が爆発するかもしれない。
悲惨な戦争が起こってきたヨーロッパでは特にそれを強く意識しており、徹底的に学校で民主主義教育を行なっている。
例えば先日、日本若者協議会主催で、高校生に留学報告をしてもらったノルウェーでは、国の教育カリキュラムとして、民主主義を最上位目標に掲げている。
「学校は、生徒に民主主義が実際に何を意味するのか学び、参加する機会を提供するものとし、民主主義を実際に体験する場でなければなりません」
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一方、日本では民主主義教育が端に追いやられており、他の科目などで“時間がない”ために、主権者教育も十分にできていない。
しかし本来は、学校で最も重要なのが、民主主義教育であり、むしろそれをコアにしなければならない。
全ての科目で民主主義について触れ、学校生活で実践する(学校内民主主義の実現)。
そうしなければ、今後日本で、政治的暴力事件が増えるのではという懸念を強く抱いている。
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