大人の日帰りウォーキング 交通の手段は電車だけじゃない!日帰り旅が簡単便利で楽になる裏技とは?
そろそろ、日帰りウォーキングも終わりに近づいてきた。朝の7時半にJR中央本線の相模湖駅を出発し、どんどん歩いて今日の目的地は約20km先にある中央道の談合坂SAである。
もうすぐ定年を迎える良人と由美子夫婦は、これからの趣味の1つとして、江戸時代に造られた五街道の1つである甲州街道を歩く旅を楽しんでいる。江戸東京日本橋を出発して日帰りで歩き繋いで今日で5回目になり、JR相模湖駅から上野原を経由して約15kmを歩いてきた。さすがに足は疲れてきて当然でもある。日帰りウォーキングで街道歩きを計画する際に15kmの距離を目安にしている2人であるが、今回はゴール場所の都合で20kmの距離に挑戦することになった。
江戸時代に江戸東京日本橋を起点として造られた五街道。当時には電車やバス、もちろん車もないので、人間が歩いて旅をするために整備された街道である。街道沿いには、一里(=3.924km)毎に一里塚や、旅人が宿泊するための宿場が造られた。当時の旅人は一里塚を時間の目安にして歩き、街道沿いの宿場に泊まりながら何日もかけて歩いて旅をしていた。江戸から京都の三条大橋までの距離は、東海道で約495km、中山道では約532kmであり2週間前後の旅であったという。
現在、良人と由美子夫婦が挑戦しているのは、同じ五街道でも東海道でも中山道でもない甲州街道。江戸東京日本橋を起点にして、現在の東京を横断し山中を抜け甲府盆地へと続いている街道であり、江戸城が攻められた際に将軍の避難路を想定されていたとある。戦国時代の武田信玄で有名な甲府城は、江戸時代に入ると徳川将軍家に最も近い親藩の城である。
当時の旧甲州街道は全てが完全に残っている訳ではないが、出来るだけ旧街道を当時と同じように歩く旅を楽しんでいる良人と由美子夫婦。しかし、2人が江戸時代の旅人と大きく違う点は日帰りで歩き繋いている事である。
旧甲州街道の多くはJR中央線やJR中央本線が併走しているので、日帰りで歩き繋ぐにはとても計画が立てやすく便利なのだが、時折交通機関が併走していない場所がある。今回歩いている区間では山梨県上野原駅から大月市の鳥沢駅までの間であり、旧街道は山の斜面にある高い場所を進んでいくのに対し、JR中央本線と国道20号甲州街道は遠く離れて山を越えた先の谷を流れる桂川(相模川)に沿って走っている。この区間は約15kmもあるので、ここを一日で歩くように計画すれば良いけれど、前回の終了がJR相模湖駅だったので「帯に短し襷(たすき)に長し」という訳になってしまった。それで、地図とにらめっこをしながら気付いたのは中央道が旧甲州街道に並走している事であった。
高速バスが使えるのではないか?
調べてみると、旧甲州街道と並走するように造られている中央道(中央自動車道路)は上野原ICを過ぎると坂を上って標高を上げていくが、その途中に談合坂SAがある。そして、談合坂下りSA付近が旧甲州街道の野田尻宿であり、SA内に高速バスの野田尻バス停があった。
高速バスだから運賃もそれなりに必要なのかと思い調べてみると、今回乗ろうとしている区間の野田尻バス停から東京新宿にあるバスタまでの料金はweb決済1250円(窓口1400円)であり驚くほどの高額ではない。JRの電車料金を新宿駅~上野原駅間で比較してみると、電車では990円で差額は260円であるが途中の高尾駅で乗り換えることが多い。全席指定の高速バスでゆっくり座れて、新宿まで乗り換えなしと考えれば座席指定の料金だと考えれば高くはないかもしれない。そう考えると、低料金で楽に移動できる裏ワザかもしれない。中央道の渋滞さえなければだけれど。
旧甲州街道を上野原宿、鶴川宿を歩き進んできた2人は山間部を走っている中央道に沿うよう残されている旧甲州街道をひたすら歩き続けていた。車が走るように造られている中央道は山間部の尾根であるアップダウンが激しいこの付近では山肌を削り、谷には橋を架け、トンネルを通しながら緩やかに坂を上って進んで行く。現在では、その脇道となっている旧甲州街道も車が走れるように整備はされているが、登ったり下ったりで、時には中央道を見下ろし、時には中央道を真下から眺めたりと、登ったり下ったりを繰り返しながら自然の地形を楽しめる道であるが、歩き疲れている2人にとっては苦行の様だと感じてしまう嬉しくない坂道でもあった。
戦国時代のお城跡か…
街道脇に史跡があり、その説明版にはこの場所に武田信玄の家臣が甲斐国の東口を相模国の北条氏から守るために山城が造られたと書かれていた。この辺りは江戸時代に入って甲州街道が整備されているが、それ以前には交通の要所であるとともに池や泉があり水にも恵まれていたので城をつくることが出来た。そして、江戸時代に入ると265年もの間も続く争いのない時代になり、敵を見張るための城は必要なくなったのだろう。
中央道の拡張工事の発掘調査で、旧甲州街道は尾根筋を縫うように断続的に発見されており、道幅は1m余りと狭く地形に沿って蛇行や起伏が激しく、険しい道だったとあった。
当時の高台で見晴らしが良かった場所は、江戸時代に入ると甲州街道が整備され多くの旅人が往来し、時代の移り変わりとともに日本の大動脈の1つである中央道が堂々と走り抜けている。
これから向かう甲斐国は山梨県の甲府盆地にあり、盆地と言う名前の通りに周囲は山に囲まれている。西側には標高3000m級の山々が聳え立つ南アルプス、北側に八ヶ岳、東は奥秩父山塊で、南には道志山塊と丹沢山塊。南アルプス以外の場所でも2000m級の山々である。
江戸から甲府盆地に向かうには、どこを通っても山を越えなければならず、当時からある旧街道は甲州街道を含めて三街道しかない。今歩いている甲州街道、埼玉県秩父から雁坂峠を抜ける秩父往還。そして、現代では柳沢峠を抜けているが、当時は大菩薩峠と抜けていた青梅街道である。秩父往還は現在国道140号に継承されており、日本三大峠でもある雁坂峠を有料の国道トンネル(雁坂トンネル:普通車740円)で通行できるが、当時の旅人が越えていた雁坂峠は標高2082mの場所にある。
一方で青梅街道では、現在では国道410号(大菩薩ライン)が継承して柳沢峠を越えるように整備されているが、登山客に人気がある大菩薩峠を越えており、標高1897mの峠を越えなければならなかった。そう思うと、甲州街道は険しい道であったが、越える峠は笹子峠(標高1096m)なので、五街道として整備されたのだろう。
「ここを曲がると次の野田尻宿と書いてあるわ」
「由美ちゃん、野田尻宿はまた今度にしようよ。もう。今日はたっぷり歩いたし…」
「そうだね、お互いに今日は良く頑張ったよね」
さすがに、一日で20kmも歩くと、何かの修行のようだと感じてくる。もしかして、修行とはこういう経験なのかもしれないと思いながら、野田尻宿のすぐそばにある中央道の談合坂SAへ向かって疲れた足を引きずるように歩きだす。
「よし君、帰りは高速バスに乗ろうとは、よく気が付いたよね。私なら、思いつかなかったと思うわ」
思いがけず由美子に褒められて、内心では嬉しいと思っている良人である。
「この辺りは中央道に並走しているから高速バスがあるだろうと。当時の宿場の名前がバス停の名前で少し驚いたけれど、考えてみると、江戸時代の宿場の名前は集落の名前だし、地名になって残っている場所が多いから当然だよね」
「お腹空いた」
今までの会話の流れをかき消して、突然、由美子の口からボソッと心の声が漏れた。
良人は思った。長く夫婦を続けていると、言葉のキャッチボールが言葉一方通行、さらには言葉の遠投になることがある。お互いがお互いの言いたいことを言っているだけで、会話がつながっていないのだ。でも、ま、良いか。誰かに迷惑をかけている訳じゃないし。
自分も、お腹空いたよ。
今回歩いたコース(JR相模湖駅~高速バス野田尻バス停)約20km
今回歩いたコースのGoogleマップはこちら(外部リンク)
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