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なぜ『おちょやん』は朝ドラ屈指の名作となりえたのか その壮大な構想を検証する

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

『おちょやん』の壮大さのもとにあるもの

朝ドラ『おちょやん』は、スケールの大きなドラマだった。

(本稿は前稿『屈指の名作となった朝ドラ『おちょやん』の山場を13時ニュース三條アナ視線で振り返る』

https://news.yahoo.co.jp/byline/horiikenichiro/20210514-00237910/

で触れた「家族をテーマにした名作ドラマだった」という部分を、あらためて深く掘り下げたものである。また最終話まで詳しくネタバレしているのでご留意ください)

壮大だったのは最後まで見ないと意図の汲めないドラマとなっていたところだ。

ときどきそういう朝ドラはあるのだが、それにしても構成が壮大だし、言い方を変えると「作り方がのん気」である。

半年間ずっと見てもらうことが前提になっている。

『おちょやん』のテーマは「家族」であった。

「本当の家族とは何か」について示したドラマだった。

ただそのテーマと狙いがはっきり実感できたのは、ラスト3週である。

見ているほうの勘が悪かったのではないかといわれればそのとおりかもしれないが、そういう作りになっていたからしかたがない。

全体の流れでいうなら、全23週のうち、20週が前振り、最後3週でそれを回収するドラマだったということになる。

壮大で、のん気である。

浪花千栄子がモデルである、ということさえ借り物

その構想に気がつくまで、いろいろ不思議な部分が目についた。

たとえば浪花千栄子の人生をそっくりなぞっていたわけではなかった。

ひょっとすると「浪花千栄子」さえ、ドラマの真のテーマのための借り物だったのかもしれない。極論ではあるが、そう考えられなくもない。

浪花千栄子という女優は、『おちょやん』の時代が終わったあと、つまり昭和27年以降に大活躍が始まる。

溝口健二、黒澤明、小津安二郎らの錚々たる名監督の映画に出演し続けた。(名作ぞろいなのでいまでもいろんなソフトで見られる)。

ラジオから始まった出演はテレビにも続いた。

1960年代から1973年まで、テレビでよく見かける女優さんだった。

その“『おちょやん』以降の栄光の時代”の浪花千栄子はドラマでは描かれない。

その姿を示唆さえされていない。

ドラマにはそこは不要だったのだろう。

女優の栄光の物語ではなかった。

これはこれで見事な構成だとおもう。

「家族」を逆説的に描ききった名作

『おちょやん』で描かれていたのは「家族」である。

主人公の竹井千代(杉咲花)は前半生はほぼ「家族」と無縁であった。

そこから115話を経て、家族とはどういうものか、というひとつの形を示した。

「一人で生きると決意した女性」にとっての家族像を提示し、多くの人を元気づけられたとおもう。しかも示していたのは大正昭和の古い家族観ではない。いまも、というか、いまだからこそ理解されうる「家族像」を示していた。

115話をきちんと見終わると、それが深く強く届いてきた。

その部分において『おちょやん』は名作だとおもっている。

大阪を描いていなかったという勝手な誤解

前振りが長かったので、いくつか戸惑ったこともある。

ドラマ第2週から、日本のブロードウェイ「大阪の道頓堀」が大きく出て来たので、大阪を楽しく取り上げるドラマなのかとおもったが、ちがっていた。

道頓堀が出てきたあとは、大阪のほかの地名がでてこなかった。

京都も出てきたが、ここはただ千代の逃げ場所として登場するばかりで、あまりリアルな場所として出てきていない。

関西を舞台にしながら、ずいぶん「土地勘のないドラマ」だとおもっていた。(そういう原稿も書いた)

でもそれはそういう問題ではなかった。

土地は、あまり主題と関係がなかったのだ。

のちの喜劇王も「家族の一員」としての登場

また松竹新喜劇(松竹家庭劇)をモデルにした劇団に主人公は所属していたが、当時の関西の演芸の世界について、あまり触れられていない。

ときどき「松竹新喜劇のテイスト」でドラマが進行することもあったが、そもそも「吉本新喜劇」とはずいぶん違う「松竹新喜劇」のテイストでドラマを進めることには無理があるようで、少しの展開で終わっていた。

また、のち松竹新喜劇を一人で背負って立つ喜劇王“藤山寛美”にあたる人物も、大事な役として登場していたが(まえだまえだ弟の前田旺志郎が演じた松島寛治)、その藤山寛美らしい姿は111話の舞台(『初代 桂春団治』での丁稚役)で少し垣間見えただけであった。

藤山寛美の実際の孫(須賀廼家万歳役の藤山扇治郎)が「藤山寛美のモデル役」と一緒にいるシーンを見て、私は少し心揺さぶられたのだけれど、それもややマニアックな楽しみかただったようだ。

彼は、主人公の千代が「家族の一員や」とおもっているポイントで重要な役割だったのだ。

9歳で売られ、その金も使い込まれる過酷な人生

主人公の竹井千代は、家族との縁が薄く、過酷な人生を歩んできた。

9歳のときに奉公に出された。

金のために家を出され、しかも父はその金を酒と博打で使ってしまい、借金取りに追われて夜逃げしてしまう。

自分の身売りさえもほぼ無意味だったというところが、凄まじく過酷である。

9歳で、帰る家が地上のどこにもなくなったというのは、かなり厳しい人生だ。

本気で想像しないかぎり、その厳しさはわからない。

そのあと、ずっと落ち着ける家族のいないまま、彼女は過ごしていく。

道頓堀でも、京都でも、家族はいない

道頓堀の奉公先で勤めつづけ、いっときはそこで家族のように受け入れられるが、父が現れその借金のために再び売られそうになり、道頓堀を逃げ出す。

そのあとは京都のカフェーで働き、また鶴亀撮影所の女優にもなった。

ここでは助監督の小暮(若葉竜也)に求婚される。ひとつ家族を作るきっかけだったが、役者を続けるために断った。

すこし話が逸れるのだが、この小暮はのちに女優の高城百合子(井川遥)とソ連へ逃げる。

高城百合子は岡田嘉子だったことになる。

岡田嘉子は35年経って1972年に日本に帰ってきたので、かなり話題になった。この人のことは鮮明に覚えている。

そしてのち(ソ連崩壊後)小暮にあたる人物はソ連で処刑されていたことが明らかになった。(入国後そのままスパイ容疑で捕まり、二年のち、ノモンハンで日本とソ連が戦ったすこしあとに銃殺になったらしい)

ドラマの中で千代は、彼女たちを匿って逃がしたが、「世紀の駆け落ち」の前に特高に捕まったほうが、じつは、小暮(つまり演出家の杉本良吉)にとってはましだったのではないかと、いまとなってはおもってしまう。まったく詮ないことであるが。

「最後の家族」という希望だった弟にも去られる

竹井千代は、やがて大阪の舞台に戻り、鶴亀家庭劇に入る。

幼いときに生き別れた弟とも再会するが、彼は姉を恨んでいた。かけがいのない繋がりを信じていた弟もまた、「家族」にはなってくれなかった。

でもそのあと、劇団の座長の一平と結婚した。

また、少年の役者松島寛治(前田旺志郎)を預かり、一緒に暮らす。

やっと千代にも「家族」らしい場所が出来た。

しかしそれもつかのま、戦争が始まり、寛治は満州に渡り、音信不通となる。

夫は浮気のすえ、若い劇団員と子供を作ってしまう。

その子のため、千代は身を引く。

あっというまに天涯孤独に戻ってしまった。

35年ぶりに声を掛けてきた継母を激しく拒否する

ここまでが前振りの20週100話である。

このあと「奇跡の三週」とよびたい15話がある。

彼女を救ったのは継母だった栗子(宮澤エマ)だった。

9歳の千代が家を追い出され奉公に行ったのは、継母の栗子が家に入ってきたからである。

いわば彼女から家族を奪った元凶である。

でもその35年後、離縁して行き場所をなくした彼女に声をかけたのが、栗子だった。

孫娘・春子の面倒を見てくれないかと頼んでくる。

栗子の娘夫婦(主人公の母違いの妹夫婦)は戦争で亡くなり、孫の春子は一人ぼっちになってしまった。その面倒を頼むというのだ。

千代は激しく拒絶する。

「ずるいわ!」と少女に還って叫ぶ千代

ここからの展開がすさまじかった。

戦争で両親を亡くして一人ぼっちになった子を見て欲しいといわれ、千代は激しく泣きながら、おもいをぶつける。

「戦争で家族を亡くして一人になってしもうた……ずるいわ……うちはもっと前からずっと一人や……誰も面倒見てくれる人おれへんのやったら奉公にでも出したらよろしい。うちを追い出したときみたいに」

泣きながら一気に語る。

この叫びから、新しい家族が始まった。

隣室でそれを聞いたしまった春子は、静かに泣き出していた。

栗子が気づいて抱き寄せ、千代はあわてて上がり込む。

「かんにん、うちは、なんちゅうことを、、、」と頭を下げ続ける。

我に返った千代の姿が強く突き刺さってくる。

栗子が「いろんなものを持ってなかった人」だったことに気づく

継母の栗子は人が変わっていた。

天涯孤独に戻ってしまった千代を心配して、栗子は声をかけたのだ。

孫娘の面倒を見て欲しいということにかこつけて、一緒に住み始める。

ちょっと不思議な三人暮らしが始まる。

ほとんど一緒に住んだこともなかった継母。

両親をなくしたその孫娘。

その二人と暮らし始めた。

最初は落ち着かなかっただろうが、しかし静かな生活が続き、三人はなじんでいく。

継母の栗子もまた、「いろんなものを持っていなかった人」だったことに、千代も気がついていく。

四季の美しい風景のような三人の暮らし

よるべない三人が、お互いを確かめ合うように暮らしだす。

この三人の暮らしのたたずまいが、じつに心に沁みる風景であった。

日本の美しい四季の風景を流す番組を見ているような、穏やかであたたかい気持ちになった。

朝ドラを見ていてこんな気持ちになるのはちょっと珍しい。

いまあらためて見返していたが、この3人暮らしのシーンだけでいいから何度も見ていたい気持ちになる。

何でもない日常の暮らしが描かれ、それを見てるだけで和むのである。

「不思議な魅力に富んだ」家庭シーンだった。

『おちょやん』でもっとも驚かされた105話の花篭のシーン

そんな千代にラジオ出演の話がくる。

悩んだ末に出演することになった朝、継母の栗子が「花篭」を千代に渡した。

105話である。

『おちょやん』でもっとも驚かされたシーンである。

花篭は、竹井千代の京都撮影所時代から、誰からとはわからず届けられるものだった。

節目節目に送られる花篭の送り主を千代はいろいろ想像していたし、またドラマを見ている者もそれぞれ想像をふくらませていた。

それがこの105話で、継母の栗子の贈り物だったとわかる。

「女優として頑張ってると知ったときにうれしうて涙とまらへんかった。それから、こっそりあんたのお芝居を見るのが、あての生きがいになった。見るたびに元気もろた」

静かに栗子は語る。

「あてはあんたのお芝居が大好きやね。千代。きばってや」

静かに語るからこそ、深く胸に入り込んでくるセリフであった。

「ほんまにあほやな」から始まる竹井千代の名ゼリフ

それからしばらく経ったある日、栗子は千代にあらたまって話をする。

「春子は正真正銘、あてとテルヲさんの血を引いた子や……せやさかい守ってやってや」

なんだすそれ、と聞き返す千代に「ちゃんと言うときたかったんや。春子のためにもあんたのためにも」と栗子はいう。

そして、このあとの千代のセリフが、強く刺さってくる。

この109話終盤の千代のセリフは半年のドラマ「おちょやん」の集大成だった。

「ほんまにあほやな、何もわかってへんわ、血がつながっていようと、いまいと、そないなことどないでもよろしいのや。春ちゃんはもう、うちの大切な家族だす。一生うちが守る。……栗子さんも、そうやで」

栗子さんもそうやで、という言葉が、流れ矢のように突き刺さってくる。

セリフを受ける栗子がよかった。

一生うちが守る……栗子さんもそうやでと穏やかに、でも力強く声をかけられ、栗子はまず驚いた表情になる。そして「おおきに」と答えて、はは、と笑い、横を向き、涙ぐみながら向き直って「そうか」と言って、少しうなずいた。そして、涙を手でおさえた。

「そうか」と答えられる栗子の心情が、とてもいい。

「一緒に住んで、お互いのことを大切におもったら、それはもう、家族だす」

109話最後の千代のセリフに『おちょやん』のもっとも大事なことが込められていたとおもう。

翌日の110話で、栗子が亡くなったことがナレーションで告げられる。

さほどショックを受けなかった。

それは「血がつながっていようといまいと、そんなことはどうでもよろしい」という言葉が、このドラマのテーマだったと強く感じたからだろう。

栗子なきあと、ちょっとややこしい関係の伯母と姪は、おたがいにいてくれてよかったと言い合い、抱擁する。

“一緒に住んで、お互いのことを大切におもったら、それはもう、家族だす”

これは実際に千代の言った言葉ではないが、勝手に私の心に届いてきたメッセージである。そのひとことのために全115話が使われたようにおもう。

そこがすさまじい。115話がひと言に込められるのはすごいことだとおもう。

屈指の名作だと感じたわけは、そこにある。

21世紀に生きるみんなに投げかけたメッセージ

結婚をしていなくても、子供がいなくても、それでも家族はできる。

一緒に暮らして、お互いを大切におもえば、家族なのだ。血がつながってようがつながていまいが、どうでもよろしい。

これは21世紀に生きるみんなに投げかけたメッセージだったようにおもう。

小さな家で、静かに暮らしている三人の姿を見られたことが、それはたった10話ぶんのことだったけれど、とても幸せな気持ちになれた。

家族を強く求め、そしてきちんと家族を得た主人公の姿が描かれた。

見ていて、ずいぶん幸せな気持ちになった。

彼女がそのあと名だたる女優となったということは、たしかにこのドラマにとっては余計なことだったのだろう。

みんなから次々と声を掛けられて終わる素晴らしさ

最後の5話は、みんなが日常に戻っていく姿を描き素晴らしかった。

113話で、もと夫とその妻を、その子の存在ゆえに赦す千代の姿は見事だった。

まさに「赦し」の名シーンであった。

最終話では、久しぶりの舞台にたつ千代を、多くの仲間が客席から応援した。

そして、いつのまにか、死んでしまった父と母と弟が出てきて声援を送っている。

「家族」テーマのドラマだから、最終回にそういうシーンがあって当然だけど、でもその瞬間おもったのは、ずるい、ということで、胸が揺さぶられ、、まっすぐ見ていられなくなった。

そのあと、最後の最後はそれぞれの日常が描かれる。

千代と春子は、連れだってでかけていく。

道行く人から次々と「おはようさん」と声を掛けられる。

この「みんなから声を掛けられる」という姿が秀逸だった。

「最後の3週だけがとびぬけて素晴らしかった23週のドラマ」を名作と呼べるのかどうか、議論のあるところだろう。

ただ、「血がつながってようがいまいが、そんなことはどうでもよろしい。お互いを大切におもいあたっら家族だす」とメッセージがいつのまにか強く強く届いてきたという点においては、屈指の作品だったと、それはおもう。

最終話でここまで泣かされた朝ドラはこれまでなかったようにおもう。

(「おしん」は最終話ではそんなに泣かされていなかった)

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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