島津氏も実は東軍に与する予定だった? 鳥居元忠の「血染め畳」、「血天井」とあわせて
大河ドラマ「どうする家康」では、伏見城が西軍の攻撃を受けて落城し、鳥居元忠は非業の死を遂げた。ところで、一説によると、西軍に与した島津氏は、実は東軍に味方したかったという。この話が史実か否か、考えてみよう。
西軍の一員だった島津義弘は、伏見城内の鳥居元忠に味方になる旨を伝え、入城して西軍と戦うことを希望したという(『島津家譜』)。しかし、元忠が拒否したので、実現しなかったといわれている。
慶長5年(1600)8月15日付の毛利輝元書状(「島津家文書」)によると、義弘は伏見城の攻撃で大手柄を立てたと書かれているので、『島津家譜』に書いていることと話が矛盾する。義弘は元忠に味方どころか、大いに軍功を挙げていた。
義弘が伏見城に入城を希望し、元忠を支援しようとしたのか否かを裏付けるのは難しい。その一方で、義弘は国元の薩摩から、十分な兵力を送り込んでもらえなかったのは事実で、その軍勢はわずか千余だったといわれている。
その原因は、義弘と兄の義久が不和だったからだろう。関ヶ原合戦後、島津氏は家康と和睦するが、後世に成った『島津家譜』はアリバイとして、あえて「義弘が東軍に志があった」と書いた可能性がある。
伏見城の戦い後、元忠の首級は大坂城近くの京橋口(大阪市都島区)に晒された。その後、元忠と親しくしてた京都の商人・佐野四郎右衛門が哀れに思い、知恩院(京都市左京区)内の長源院に手厚く葬ったと伝わっている。
ただし、なぜ徳川方が重臣の元忠を葬らず、親交があったとはいえ、佐野四郎右衛門だったのか、少なからず疑問が残る。元忠の忠節は「三河武士の鑑」と称えられ、末永く語り継がれており、徳川方が葬るのが筋だからである。
家康は元忠の軍功を大いに賞賛し、江戸城の伏見櫓の階上に伏見城の「血染め畳」を設置した。伏見城の血染め畳とは、元忠の血で染まった畳である。江戸城に登城した大名たちは、伏見城の血染め畳を見ると、元忠の忠義に思いを馳せたという。
明治維新後に明治新政府に江戸城を接収すると、壬生藩(栃木県壬生町)の鳥居家に伏見城の血染め畳が下げ渡した。壬生城内の元忠を祭神とする精忠神社の境内には「畳塚」を築かれ、伏見城の血染め畳は埋納されたのである。
元忠は末永く顕彰されたのであるが、本当に畳は元忠の血で染まっていたのだろうか。
なお、伏見城の床板は「血天井」として、京都市の養源院以下、宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、興聖寺(京都府宇治市)にも残されている。「血天井」とは、元忠らの血で染まった床板を持ち帰り、天井に貼られたものである。
こちらも本当に元忠の血で染まっていたものなのだろうか。疑問は尽きない。
主要参考文献
渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)