映画『霧の淵』。“映画祭的な”、小さなお話の成功
サン・セバスティアン映画祭で『霧の淵』を見た。
小さな世界での小さなお話、という点ではいかにも「この映画祭的」だったが、それがこの作品ではマイナスになっていない。
舞台は山深い小村にある古い旅館。そこを切り盛りする母と娘にいくつかの危機が訪れる。村全体を襲う社会的な危機である『過疎』、中くらいの個人的な危機である『離婚』、そしてもう一つの日常でのハプニング……。
この3つが物語を動かしていき、飽きさせない。
それぞれに二人がどう対応するのか? 何をして何を思うのか?という謎解きでお話が進むのだ。
時の流れが止まったような場所なのだが、もちろん月日の流れは止まることはない。ゆっくりしたペースだが確実に物語は進んでいく。
■実在する旅館。訪れてみたい!
見ている間はお腹も空いてくる。
食事シーンが多い。食べているフリではなく、メニューや調理過程も見せてくれる。旅館の毎日、特に便利な電化された器具や道具がない昔の台所では、食事の用意と片付けの連続で1日が始まり終わるのだろう。
旅館は面白い作りになっていて、道路を挟んで自宅部分と宿泊施設部分に分かれている。宴席を楽しむ様子が景色の一つとして自宅から眺められる。あちらの騒ぎとこちらの静寂。このシーンは『東京物語』を思い出した。
食べたいし泊まりたいと思ったら、この旅館、実在するのだそうだ。
名前は朝日館。親子(母と息子)で切り盛りしている。所在地は奈良県の川上村。ストリートビューで旅館の周りをあちこち走ってみると、映画に出てきたところがいくつも出てくる。村で長い時間を過ごし、丁寧に撮られた作品であることが伝わってくる。
日本の昔が残っている村を「訪れてみたい」という憧れは、スペインに在住する還暦を越えた日本人の郷愁だ。ここから、「村に住みたい」に発展させるには覚悟が要る。
お客として食べる釜炊きのごはんはおいしいだろうけど、自分が炊く側に回ればどうか? 障子の引き戸は美しいが、防音や防寒はどうか? 私にはストレスになってしまうだろう。お客さんとしてでしか「川上村を守ろう!」と言えないのは悲しいが……。
■サン・セバスティアン映画祭の危機
『霧の淵』はそうではなかったが、作品のスケールが小さいこと、スペクタクルに欠けることは退屈なだけになりかねない。
映画祭として、ハリウッド的な商業主義に疑問を呈する、という気概は良い。商業ベースに乗らない小さな作品を発掘する、という姿勢も買う。
だが、それが面白くないのでは、映画の本質=楽しませる、に反する。
昨年の最高作品賞『THE KINGS OF THE WORLD』も一昨年の『BLUE MOON』(私の評はこちら)も興行的には成功しなかった。社会問題に切り込んだ良い作品だったけど、「面白いものを見たい」というお客さんの欲求を満たすようには思えなかった。
カンヌ映画祭の最高作品賞が、今年の『アナトミー・オブ・ア・フォール』(面白かった。評をお楽しみに)、昨年の『逆転のトライアングル』(私の評はこちら)、一昨年の『TITANE/チタン』(私の評はこちら)、その他『パラサイト 半地下の家族』、『万引き家族』といずれも話題になり、それなりの商業的な成功を収めているのと対照的だ。
商業主義への反発だけでなくカンヌとの差別化のために、さらに小さく細道に分け入った挙句、袋小路に迷い込んだ、ということなのだろうか?
今年のサン・セバスティアン映画祭では、コンペティション部門で退屈な小さな作品が目立った。面白かったのは、他の映画祭に出品済みのものばかりだった。1年限りの「不作の年」だったと信じたい。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭