2024年1月、ダイヤモンド社から『最後の適当日記(仮)』を上梓した高田純次さん。読めば、「適当男」の脳内を眺めるかのような臨場感のある、抱腹絶倒の日記文学だ。
1987年、グロンサンのCM「5時から男」でブレイクし、その後も「CMの帝王」などといわれるほど、数多くのCMに起用されている高田さんだが、そこに至るには10年に及ぶ、つらい下積み生活を送ったそうだ。
一体、どんな生活だったのか、くわしく聞いてみよう。
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宝石デザイナーとして会社勤めをしていた高田さんが、脱サラして「劇団東京乾電池」に入団したのは30歳のとき。
グロンサンの「5時から男」のCMに起用され、CMタレントとしてブレイクする40歳までの10年間は安アパートに住み、過酷な肉体労働に励んで妻子を養う極貧生活だったという。
当時の高田さんの一日のスケジュールは、昼の12時から夕方の6時まで劇団の稽古、そのあと7時から翌朝の6時まで工事現場の深夜バイトで働いて、その後、家に帰って3~4時間の睡眠をとってまた昼の稽古にむかうというもの。
キツい生活には違いなかったが、体が丈夫で体力があったから何とかやっていけたという。
ビンボーだったけどツラくはなかった。オレは夢もなければ目標も持たなかったから
こんな危険な仕事はやってられないと、劇団仲間の柄本明さんの紹介で鞍替えしたのが大道具の仕事だった。劇場やテレビ局で舞台を設営する仕事で、工事現場の仕事と比べて圧倒的にラクだったという。
ところがこの仕事、年末になると番組の収録やイベントが少なくなって、稼げなくなるのが玉にキズだった。高田家は当時、彼が2日もバイトを休むと、たちまち家族が干上がってしまうほど、ギリギリの生活を送っていたのだ。
ただ、意外なことに、高田さんはこの時期の自分をふり返ると、「毎日が楽しかったし、充実していた」と語る。
大きな夢は見ず、目標のようなものも立てず、ただ目の前のことを懸命にやるだけだったのでひとつも迷いを感じなかったというのだ。
「適当男」の高田さんらしい、独特の処世術と言えるだろう。
初めてもらったテレビのレギュラー。でも、最初はぜんぜんウケなかった
そんな高田さんが、初めてテレビ番組のレギュラーをもらったのは1980年、フジテレビの『笑っていいとも!』の前身番組の『笑ってる場合ですよ!』に劇団東京乾電池のメンバーらとともに起用されたとき。
「日刊乾電池ニュース」という月曜から金曜のコントのコーナーだった。
当時、東京乾電池は小劇場ブームの発信地と言われた渋谷ジァン・ジァン(2000年に閉館)を満員にするほどの勢いで成長していて、これにプロデューサーの横澤彪(たけし)さんが目をつけたのだ。
「大器晩成とは、無能な者を慰める言葉なり」これ、オレの座右の銘だよ
やがて高田さんは、1985年に日本テレビ系で放送を開始した『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のレギュラーメンバーに起用されて、全国区のタレントとして知られるようになるのだが、それでも番組開始から2~3年はバイトを辞められず、あいかわらずのビンボー暮らしだったという。
ところで、著書『最後の適当日記(仮)』で高田さんは、好きな言葉として「大器晩成とは、無能な者を慰める言葉なり」を挙げている。
30歳で劇団員になり、10年の下積みを経てブレイクした高田さんは、まさに大器晩成型の人生を歩んだと言えないだろうか。
※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版も読んでください。
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