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適当男・高田純次の下積みビンボー生活から学ぶ、超ポジティブ処世術

ボブ内藤編集者、ライター、インタビュアー
撮影/八木虎造

2024年1月、ダイヤモンド社から『最後の適当日記(仮)』を上梓した高田純次さん。読めば、「適当男」の脳内を眺めるかのような臨場感のある、抱腹絶倒の日記文学だ。

1987年、グロンサンのCM「5時から男」でブレイクし、その後も「CMの帝王」などといわれるほど、数多くのCMに起用されている高田さんだが、そこに至るには10年に及ぶ、つらい下積み生活を送ったそうだ。

一体、どんな生活だったのか、くわしく聞いてみよう。

オレを恐怖のどん底に落とした、美空ひばり邸「生き埋め」事件

宝石デザイナーとして会社勤めをしていた高田さんが、脱サラして「劇団東京乾電池」に入団したのは30歳のとき。

グロンサンの「5時から男」のCMに起用され、CMタレントとしてブレイクする40歳までの10年間は安アパートに住み、過酷な肉体労働に励んで妻子を養う極貧生活だったという。

サラリーマン時代、オレはできる社員だったから3年半で200万円の貯金があったの。
これを頭金にしてマンションでも買おうかと女房と話したりしてたんだけど、それを生活費にあてれば少しはしのげるだろうと考えたんです。

ただね、それがまったくの誤算だった。というのも、会社勤めで毎日、家と会社を行き来するだけだと、特別なことをしない限り、そんなにカネを使うことはない。交通費とかは経費で落ちるからね。

その一方で定職を持たず、あっちへフラフラ、こっちへフラフラという生活だとやたらカネが飛んでいくんだ。

結局、頼りにしていた200万円の貯金は1年足らずでなくなって、工事現場で働く、肉体派フリーターになるしかなかった。

当時の高田さんの一日のスケジュールは、昼の12時から夕方の6時まで劇団の稽古、そのあと7時から翌朝の6時まで工事現場の深夜バイトで働いて、その後、家に帰って3~4時間の睡眠をとってまた昼の稽古にむかうというもの。

キツい生活には違いなかったが、体が丈夫で体力があったから何とかやっていけたという。

そんなオレでも、さすがに「これは無理だ」と思うこともあったよ。それが、水道工事の現場で遭った「生き埋め事件」。

目黒の美空ひばりさんの豪邸の近くで、水道管を通す穴を掘っていたんだ。ツルハシで5メートルくらいの深い穴を。

掘りだした土は「山止め」といって、板で止めて崩れないようにしていたんだけど、その日は前日に雨が降っていたせいもあって土砂が重くなっていたんだね。

いきなり、ドサッという音がして、目の前が真っ暗になった。オレは入り口のところを掘ってたから、もがいてるうちに外に出られたんだけど、奥のほうを掘ってたおっさんはまだ埋まってるんだよ。

人が埋まってるんだからツルハシを使うわけにはいかない。両手を血だらけにして、必死に土砂を掻きだしておっさんを助けたよ。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

ビンボーだったけどツラくはなかった。オレは夢もなければ目標も持たなかったから

こんな危険な仕事はやってられないと、劇団仲間の柄本明さんの紹介で鞍替えしたのが大道具の仕事だった。劇場やテレビ局で舞台を設営する仕事で、工事現場の仕事と比べて圧倒的にラクだったという。

ところがこの仕事、年末になると番組の収録やイベントが少なくなって、稼げなくなるのが玉にキズだった。高田家は当時、彼が2日もバイトを休むと、たちまち家族が干上がってしまうほど、ギリギリの生活を送っていたのだ。

そこで、これも劇団員の紹介で、キャバレーのボーイの仕事を臨時でやることにしたんです。水商売のほうは、逆に年末になると時給が高くなるんだよね。

肉体的にはラクな仕事なんだけど、精神的にはそうでもなかった。

だって、31歳のオレが20歳そこそこのヘッドに「高田、こっち来い」とか「バカ野郎、走れ!」なんてアゴで使われるわけだからさ。それでブーたれて、一緒に働いてた劇団仲間と外の非常階段のところでビール飲んだりしてたね。

そんなある日、オレが宝石デザイナーしてたころに取引していた下請け会社の社長が店にやって来てしまったんだ。

実は、会社を辞めたとき、辞表に「一身上の都合で」って書いたんだけど、オレ、けっこうできる社員だったから、まわりからは他の宝石会社に引き抜かれたんだと思われてたらしいのよ。

だからその社長に「あれ、高田さん。こんなところで何してるんですか」って聞かれたときは返す言葉がなかったね。見ればわかるだろって言いたかったよ。こっちは白いワイシャツ着て、床に片膝ついてるんだからさ。

結局、むこうもそんなオレの姿を見て居づらくなっちゃったらしくてさ、1時間そこらで帰っていったよね。

ただ、意外なことに、高田さんはこの時期の自分をふり返ると、「毎日が楽しかったし、充実していた」と語る。

大きな夢は見ず、目標のようなものも立てず、ただ目の前のことを懸命にやるだけだったのでひとつも迷いを感じなかったというのだ。

「適当男」の高田さんらしい、独特の処世術と言えるだろう。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

初めてもらったテレビのレギュラー。でも、最初はぜんぜんウケなかった

そんな高田さんが、初めてテレビ番組のレギュラーをもらったのは1980年、フジテレビの『笑っていいとも!』の前身番組の『笑ってる場合ですよ!』に劇団東京乾電池のメンバーらとともに起用されたとき。

「日刊乾電池ニュース」という月曜から金曜のコントのコーナーだった。

当時、東京乾電池は小劇場ブームの発信地と言われた渋谷ジァン・ジァン(2000年に閉館)を満員にするほどの勢いで成長していて、これにプロデューサーの横澤彪(たけし)さんが目をつけたのだ。

朝の10時ごろに新宿アルタで集まって、作家を交えてあーでもない、こーでもないとアイデアを出し合いながらその日のニュースをネタにコントに仕立てていく。これをリハーサルなしで本番でやるんだから、普通ならビビッちゃうところだけど、即興劇でアドリブ力を鍛えていたオレたちには平チャラだった。

ところが、漫才ブームの勢いに乗ったB&Bやツービート、紳助・竜介といった人たちがドッカンドッカン笑いをとっているのに比べて、オレたちのコーナーはさっぱりウケなかったんだよ。

東京乾電池は渋谷ジァン・ジァンではウケていたけど、新宿アルタの若いお客さんとは水が合わなかったんだね。

最初のころ、ニュースを再現したあとに「そのころ、江戸城では」と時系列を江戸時代に移すような、ひねくれたことをやっていたから、お客さんたちもどう笑っていいのか、わからなかったのかもしれないね。

プロデューサーの横澤さんも、そんなオレたちを降ろしたいと考えていたみたいだけど、「江戸城では」というのをやめて時間も少し長くするようになったら、少しずつそのスタイルが理解されたようでウケるようになっていった。

「大器晩成とは、無能な者を慰める言葉なり」これ、オレの座右の銘だよ

やがて高田さんは、1985年に日本テレビ系で放送を開始した『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のレギュラーメンバーに起用されて、全国区のタレントとして知られるようになるのだが、それでも番組開始から2~3年はバイトを辞められず、あいかわらずのビンボー暮らしだったという。

『元気が出るテレビ』は、MCの(ビート)たけしさんとか松方(弘樹)さんがギャラの大半を持っていっちゃうんで、オレたち新人のギャラは本当に安かった。やっているうち、だんだん貧乏になっていくの。

女優の清川虹子さんの豪邸に押しかけて、愛用の指輪を口に入れたりして無茶したのは、当時のノイローゼ気分がそうさせたのかもしれないね。

当然、ギャラアップの交渉はしたけど、うまくはいかなかった。
『元気が出るテレビ』のロケは毎週の土曜と日曜で、翌週の月曜にスタジオ収録というスケジュールだったんだけど、「ギャラは上げられないけどそのかわり、月曜の夜に『11PM』の仕事を入れるから」って条件を引き出すのが精いっぱい。テレビのギャラというのは、なかなか上がんないものなんだなと思ったね。

ようやくバイトをせずに暮らしていけるようになったのは40歳のとき、グロンサンの「5時から男」のCMに起用されて、CMタレントとして世間に認知されてからだね。

ところで、著書『最後の適当日記(仮)』で高田さんは、好きな言葉として「大器晩成とは、無能な者を慰める言葉なり」を挙げている。

30歳で劇団員になり、10年の下積みを経てブレイクした高田さんは、まさに大器晩成型の人生を歩んだと言えないだろうか。

その言葉、確か高校の便所の落書きだったと思うんだけど、忘れっぽいオレが今でも憶えているのは、それが未来の自分を予言した言葉だったからなんだね。

ただ、オレは自ら「大器」を名乗るほど、うぬぼれ屋じゃないよ。だから、「大器晩成」のところは、「小器晩成」と言い換えてもいいね。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版も読んでください。

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編集者、ライター、インタビュアー

編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より30年間で1500を超える企業を取材。財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ビジネス界に脈々と伝わる先人の知恵 業界のセオリー』(徳間書店)、『人を集める技術!』(毎日新聞社)、『はじめての輪行』(洋泉社)などがある。また、出版社の依頼で賞金500万円の小説新人賞の選考事務局を起ちあげ、10年間運営した経験のもと、齋藤とみたか名義で『懸賞小説神髄』(洋泉社)を執筆。それをきっかけに、池袋コミュニティカレッジ「小説のコツ」の講師を2013~2023年の10年間つとめた。

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