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【戦場カメラマン渡部陽一】報道番組ではなく、バラエティ番組に出ることに、最初は葛藤がありました

ボブ内藤編集者、ライター、インタビュアー
撮影/八木虎造

や2023年10月にエッセイ『晴れ、そしてミサイル』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を出版した渡部陽一さん。その独特な話し方とキャラクターが人気を呼んでいるが、そんな渡部さんがテレビのバラエティ番組に出演するようになったきっかけについて、話を聞いてみよう。

結婚は僕にとって、人生最大の決断だった

2009年、36歳のときに結婚をして、自分の家族を持った渡部さん。命をつねに危険にさらす戦場カメラマンにとって、これは重大な決断だった。

「駆け出しのころ、僕は横浜の港で、巨大タンカーで運ばれてくるバナナをコンテナに手積みして、倉庫に運ぶ日雇い仕事をしていました。

生活費は、ギリギリまで切りつめて、7000円の日当の大部分を格安航空券を買うのに充てていたんです。

バナナと戦場、そしてまたバナナと戦場、その往復で、戦場カメラマンというより、単なるフリーターと呼ばれてもおかしくないような立場でした。

家族をもった以上、そんな生活に戻ることは絶対にできない。どんな手段を使ってでも、家族を守る、支えていく。その決意が、僕の人生の、不動の柱になりました。

妻は、僕が危険と隣合わせの仕事をしていることを覚悟の上で、僕との結婚を承諾してくれました。その気持ちを、絶対に裏切ることはできないと思いました。

そして、その決意は、翌年に長男が生まれたことで、さらに強いものになりました」

守らねばならない存在が大きくなったことで、不安になることはなかった。むしろ、責任が重くなればなるほど、心の底から元気がみなぎってきたという。

「戦地に住んでいる家族のお父さんの気持ちを、我が身に照らし合わせて理解できるようになったことも、僕にとってはとてもうれしい、とても大きな変化でした。

独身だったころの僕は、1年のうち10カ月くらいのペースで、海外に身を置いていました。でも、結婚してからは、海外にいる期間は、多い年でも4カ月程度になりました。しかも、その4カ月は行きっぱなしの4カ月なのではなく、行っては帰り、行っては帰りの4カ月なので、通算すればもっと短いかもしれません。

そうすることができるようになったのは、戦場カメラマンとして積んできた経験のおかげです。

現地のガイドや通訳をお願いする方とのネットワークが世界のあらゆる国にできたので、渡航前から彼ら彼女にリサーチしながら計画をしっかり立てられるようになったのです。行き当たりばったりの取材ではなく、効率よく、スピーディに計画した通りの取材ができるような体制が整ってきたのです」

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

バラエティ番組に出ることに、最初は葛藤がありました

自身の結婚と時を同じくして、テレビのバラエティ番組によく出演するようになった渡部さん。きっかけは、TBSの『笑撃!ワンフレーズ』という番組から出演のオファーをもらったことだという。

探偵やバーテンダー、引っ越し屋さんなど、さまざまな職業を持つ人の裏話を聞くというコーナーで、戦場カメラマンとして登場してほしいというオーダーだった。

もちろん、報道番組ではなく、バラエティ番組に出演することについて、さすがに最初は「出てよいものだろうか」という葛藤があったという。

「そこで、僕の師匠である、報道写真家の山本皓一先生のご自宅を訪ねて、ご意見を聞いてみることにしました。
すると先生は、ほぼ即答で、『陽一、出ろ』とおっしゃるのです。

戦場カメラマンの存在を世に知ってもらう、いい機会じゃないか。もし、自分に向いていないと思えばやめればいいし、できそうだと思えば、やってみたらいい、というわけです。

先生のその言葉をいただいて、初めて僕は、『腹をくくってやってみよう』という気になりました」

その結果、渡部さんはその独特な話し方とキャラクターが評価されて、他のバラエティ番組でも引っ張りだこの人気者になった。

出演する番組も当初は深夜番組だったが、次に呼ばれたときには22時になり、19時のゴールデンタイムになり、ついには12時のお昼の『笑っていいとも!』という国民的な人気番組にレギュラー出演をするようになった。

「それは、自分にとって、とてもよいことだったと思っています。

そうなることで僕は、お茶の間でごはんを食べながらテレビを見ている日本の子どもたちが、戦場カメラマンである僕の姿を目に留めて、さまざまな疑問を抱いてくれる可能性に気づいたのです。

その可能性とは、こういうものです。テレビを見ている日本の子どもたちが、お父さん、お母さんに向けて、こう質問している光景を思い浮かべたのです。

『テレビに出ている、あの、ベレー帽をかぶっている、ヒゲのオジサンが話している、イラクとか、ウクライナとか、イスラエルってどこにあるの? 戦争って、どうして起こるの?』と」

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

戦争の犠牲者である「子ども」たちを、つねに見つめていきたい

子どもの存在は渡部さんにとって、特別な存在だ。

我が子の存在はもちろんだが、世界中の紛争地、戦地にいる子どもたちのことを、彼はつねに考えている。

「僕が戦場カメラマンとして、世界各国の紛争地を訪れて感じたこと、それは、戦争の、犠牲者は、いつも、『子ども』たちであるということでした。

それは、銃によって撃ち殺される、爆撃によって命を奪われる、ということだけにとどまりません。軍が去ったあとにも、彼らが地面に埋めた地雷にやられる、化学兵器の影響で重篤な病気になる、戦争により発生した飢餓で飢え死にする、といった『第二の戦争被害』と呼ばれるもので多くの子どもの命が奪われているのです。

僕は、今回の本『晴れ、そしてミサイル』のなかで、『平和とは、やりたいことを自由に選ぶことができることです』と述べました。そういう意味で、日本で暮らしている子どもたちの多くは、例外はあるけれど、平和というものを享受しているのかもしれません。
でも、戦場で暮らしている子どもたちは例外なしに、やりたいことを自由に選べないのです。

生きるために必要な住居や水、食べ物もなければ、社会的な営みをおくるための環境インフラも破壊されてしまっている。

そうした現実が海の向こうのさまざまな国にあるのだということを、同世代の日本の子どもたちに伝える手助けができるとしたら、それは僕自身、大いなる意義のあることではないかと思うんです」

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版も読んでください。

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編集者、ライター、インタビュアー

編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より30年間で1500を超える企業を取材。財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ビジネス界に脈々と伝わる先人の知恵 業界のセオリー』(徳間書店)、『人を集める技術!』(毎日新聞社)、『はじめての輪行』(洋泉社)などがある。また、出版社の依頼で賞金500万円の小説新人賞の選考事務局を起ちあげ、10年間運営した経験のもと、齋藤とみたか名義で『懸賞小説神髄』(洋泉社)を執筆。それをきっかけに、池袋コミュニティカレッジ「小説のコツ」の講師を2013~2023年の10年間つとめた。

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