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【田原総一朗・90歳】原発問題と電通は、日本最大のタブーだった。だけど僕は果敢に切り込んでいった

ボブ内藤編集者、ライター、インタビュアー
撮影/八木虎造

2024年の4月15日の誕生日で90歳の卒寿をむかえた田原総一朗氏が著書『全身ジャーナリスト』(集英社新書)を上梓した。自ら「遺言」のつもりで自身のジャーナリスト人生を語り下ろした迫真の書だ。

彼はどのようにして、誰もが恐れるタブーに果敢に切り込んでいったのか? じっくりと話を聞いてみた。

警察に2回もパクられた! 

テレビ東京の過激派ディレクター時代

90歳になって、田原のジャーナリストとしてのキャリアは60年を超える。だが、その入り口は、決して順調なものではなかった。

大学を卒業して、朝日新聞、NHK、東京放送(現・TBS)、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)、北海道放送など、さまざまなメディアの入社試験を受けたが、こくごとく落とされた。

「だけど、結果的にはそれでよかったと思っています。もし、大手メディアに就職していたら、望まない仕事でも何とかこなして、定年退職まで会社にしがみつこうとしていたでしょうから」。

結果的には岩波映画という映像制作会社に拾われて、その後、たどりついたのが開局したばかりの東京12チャンネル(現・テレビ東京)である。念願のジャーナリストへの第一歩だ。

「今のテレビ東京はいい会社ですが、僕が入ったころの東京12チャンネルは『テレビ番外地』と呼ばれたインディーズ局でした。番組にスポンサーがつかないから制作費はキー局の3分の1しかない。そんな状態だから、どうにかスポンサーを見つけてきて番組を作っても、誰も見てくれない。

安い制作費、非力なスポンサー、低視聴率の三重苦です。

仕方がないから、大手メディアがやらないような危ない番組を作るしかなかった。学生運動、アングラ演劇、ヤクザ、犯罪者といった過激な題材をもとにして、ときにはヤラセもいとわない手法で人間のぶつかりあいを描く。そんな過激なドキュメンタリー番組を作っていった」。

浅草キッドの水道橋博士が、この時代の田原の活躍を評して「日本初のAV男優」と評した話は有名である。

「全共闘くずれのヒッピーたちが大勢集まって、裸で結婚式をやるというので取材に行ったんです。条件は、スタッフも裸で参加しろということ。撮影が始まると、ディレクターの僕にも参加を迫ってきたので花嫁のひとりとセックスをしたんです。

こうした番組が、そこそこの視聴率をあげていたから、会社も文句は言いませんでした。その証拠に、僕は警察に2回もパクられているんだけど、クビにはなりませんでした」。

会議とか、飲み会とか、いわゆる会社付き合いを一切せずに番組作りに集中して情熱をつぎこんだ。おかげで出世には縁がなく、最後まで平社員だったが、このときの経験は田原にとって、貴重な経験になった。

電通の圧力で会社をクビに。でも、悪いことばかりではなかった

1977年、田原は12年間勤めたテレビ東京を退社した。だが、それは自ら望んでの退社ではなかった。辞めざるを得なかったのである。

きっかけは『展望』という月刊誌に、後に『原子力戦争』(筑摩書房)という本になる記事の連載を始めたことだった。原子力船むつの放射線漏れ事故を契機に原発反対運動が起こって、それを取材するうち、アンチ原発だけでなく、原発を推進する運動もあることに気づき、取材を進めた。

そして、大手広告代理店が仕切り役になって、反原発の住民運動に対抗するCR(コマーシャル・リレーション)作戦を展開していることを誌面で暴露したのである。

「その大手広告代理店というのは、電通です。このとき、電通の強大な力を思い知らされました。

『こんなことを書いているヤツがいるテレビ局にはスポンサーをやらないぞ』と電通が圧力をかけてきた結果、上司である部長が血相を変えてやってきて『連載をやめるか、会社を辞めるか、早急に選べ』という選択を迫ってきたからです。

返事を延ばしていると、僕への監督不行き届きという理由で部長や局長をはじめ、経営陣までもが譴責処分になってしまい、ついには会社を辞めざるを得なくなりました。クビを切られたのです」。

とはいえ、会社をクビになったことは田原にとって、必ずしも悪いことばかりではなかった。

というのも、この一件を契機にして「電通に矢を向けたとんでもないヤツがいる」というウワサが広まって、たくさんの仕事が舞い込んできたからだ。

「田原さん、どうぞ自由に書いてください」。そのひとことで電通がタブーでなくなった

反骨心旺盛な田原はその後、計らずも自分をフリーランスの身にさせた電通を真っ向から描こうと画策する。

話を持ちかけた出版社のことごとくが、電通の怒りを買うのを恐れて尻込みするなか、ゴーサインを出してくれたのが朝日新聞社の『週刊朝日』だった。

「もちろん、朝日でも容易に事は進みませんでした。連載の1回目の原稿を送ったら、編集部に『書き直してくれ』と言われた。例によって、電通からクレームが入ったんですね。

そこで僕は、親しい友人に当時の電通の広報担当の専務の木暮剛平さんを紹介してもらって、会いに行くことにしました。木暮さんは、後に電通の社長、会長になった人です。

僕は、木暮さんに面と向かってこう言いました。

『別に電通をつぶそうと思ってるんじゃない。電通という組織の真の姿を世のなかに知らせたい。それが言論の自由を守る民主主義国家、日本のあるべき姿だ。電通は、言論の自由に反対なのか』と。

1時間くらいかけて、そう説明した。すると木暮さんは偉いもので、最後には僕の言うことを理解して、『田原さん、どうぞ自由に書いてください』と太鼓判を押してくれました。その瞬間、電通がタブーではなくなったのです」。

木暮は、電通内部の取材に協力してくれただけでなく、資料やデータも提供してくれたという。

当時の電通には、テレビや新聞、雑誌の広告取りをするだけの事業ではやっていけないという問題意識があり、広告の世界だけでなく、政界、財界、芸能界など、日本社会のあらゆる分野に入り込んで影響力を強くしてきた経緯がある。

「その背景には、『日本の社会をよりよいものにしよう』という理念があった。だからこそ、木暮さんは電通の実態を世に知らしめることを認めてくれたんですね。今の電通にあるかはわからないけど、当時の電通には立派な理念があった。それは確かです」。

『週刊朝日』で連載された記事は、『電通』(朝日新聞社)として出版され、業界のタブーを打ち破る書としてセンセーショナルを巻き起こし、ベストセラーになった。

後に田原は「朝まで生テレビ!」や「サンデープロジェクト」などの伝説的テレビ番組を起ちあげ、テレビジャーナリズムの寵児として名を揚げるが、実はそれ以前に文筆家としても目覚ましい業績を残しているのである。

※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版もお楽しみください。

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編集者、ライター、インタビュアー

編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より30年間で1500を超える企業を取材。財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ビジネス界に脈々と伝わる先人の知恵 業界のセオリー』(徳間書店)、『人を集める技術!』(毎日新聞社)、『はじめての輪行』(洋泉社)などがある。また、出版社の依頼で賞金500万円の小説新人賞の選考事務局を起ちあげ、10年間運営した経験のもと、齋藤とみたか名義で『懸賞小説神髄』(洋泉社)を執筆。それをきっかけに、池袋コミュニティカレッジ「小説のコツ」の講師を2013~2023年の10年間つとめた。

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