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【田原総一朗・90歳】「朝生」で死ぬのが僕の理想の最期だね

ボブ内藤編集者、ライター、インタビュアー
撮影/八木虎造

2024年の4月15日の誕生日で90歳の卒寿をむかえた田原総一朗氏が著書『全身ジャーナリスト』(集英社新書)を上梓した。自ら「遺言」のつもりで自身のジャーナリスト人生を語り下ろした迫真の書だ。

今回は、人気番組「朝まで生テレビ!」、「サンデープロジェクト」の誕生秘話について、話を聞いてみた。

苦肉の策で始まった「朝まで生テレビ!」誕生秘話

「田原総一朗」という名が世間で大々的に知られるようになったきっかけは、1987年にスタートした討論番組「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日系)だろう。

当時、テレビの深夜放送は新しいスポンサーがついたり、視聴率を稼げるものではないと考えられていて、どのテレビ局でも、昼間の番組の再放送や古い映画を流すことでお茶を濁していた。

そんななか、フジテレビが若者向けのお色気番組「オールナイトフジ」で当てて、各局とも「深夜シフト」に備えて新番組を作ろうという気運が高まった。そこで、テレビ朝日の編成局長の相談を受けて、田原が提案したのが「朝生」の企画だった。

「とはいえ、深夜放送には依然として大きな制約がありました。ひとつは、制作費が安いためにギャラの高い有名タレントは呼べないということ。もうひとつは、終電が過ぎた時間帯に出演者を帰すこともできないということ。なぜなら高いハイヤー代を払わねばなければならないから。

『朝生』の企画は、このふたつの制約をクリアするものでした。文化人や政治家、メディア関係者なら高いギャラを払うことはない。朝までぶっ続けの生放送にすれば、終電で来てもらい、始発で帰ってもらえる。

討論のテーマは、他局が怖がって取りあげないような重いテーマを選ぶ。そうすれば話題になって視聴率も稼げる」。

司会進行役である田原の役目は、パネラーに本音を言わすこと。中途半端な言い訳やタテマエ論はいらない。発言が生ぬるければ、「本当のところはどうなんだ」と途中でそれをさえぎって挑発して、本音を引き出す。それが討論に臨む、田原の基本スタンスになった。

「僕は、全精力こめて、番組作りに取り組みました。いつしかこの番組は僕にとって、ライフワークになっていきました。

だから、僕は『どんなふうに死にたい?』と聞かれたとき、『朝生で死にたい』と80歳を過ぎたころからそう答えています。

議論が進むなか、いつの間にか田原が静かになっているのに誰かが気づく。体をゆすってみると、すでに死んでいた──。そんな最期が僕の理想です。

それを聞いたプロデューサーには、『せめて放送中にお亡くなりになるのではなく、放送が終わって、お疲れさまとみんなにあいさつした後で逝ってもらえませんか』と言われましたけどね(笑)」。

「サンプロ」が打ち切りになって、僕は自分の傲慢に気づかされた

「朝生」の開始から2年後の1989年には、「サンデープロジェクト」(テレビ朝日系)がスタートしている。

「朝生」が、集団での討論番組なのに比べて、「サンプロ」はテーマごとの専門家や政治家を呼んでギリギリのインタビューをする時事報道番組だ。

「『サンプロ』の功績は何かと問われたら、僕はお茶の間に民主主義を持ち込んだことだと言いたい。

政治は永田町の密室でやりとりされ、動いていくと誰もが思っていたことを、政治家本人に本音を語らせることで覆していった。

その結果、『サンプロ』は時の首相も含めて多くの政治家が出演したがる、かつ視聴率も稼げるドル箱番組になっていったのです」。

絶頂期には「田原の発言で月曜からの政治が変わる」と自民党の幹部から言われるほど、番組の放送内容が政治に影響を与えることもあった。海部俊樹、宮澤喜一、橋本龍太郎の3人の首相が退陣したのは、「サンプロ」での発言が一因だったと言われている。

「その渦中にいたころを今、ふり返ってみると、『自分が国を動かしている』という驕りや錯覚があったことは否めないでしょう。

娘の眞理は、姉の綾子とともにスケジュールや仕事の調整や身のまわりの世話をしてくれたり、僕に率直な意見をしてくれるご意見番でもありますが、彼女に言わせると『あのときのパパは、傲慢で怒りっぽくて嫌な人だった』そうです。

そのことに気づかされたのは、2010年に21年続いた「サンプロ」が突如、打ち切りになったことがきっかけでした。大きなショックを受けたし、それまでの自分を大いに反省したものです」。

以後、田原は態度を改めた。政治家に意見があるときは、会って直接進言する。テレビで追いつめて首相を失脚させても、日本は決してよくならない。これまでのジャーナリスト生活で学んだこと、聞いたことを伝えて、日本社会をよいものにする手助けをしたい。そういう純粋な気持ちで政治家と接することを心掛けるようになったという。

「朝生」が「夜生」になっても、僕は相変わらず大暴れする!

田原のライフワークである「朝まで生テレビ!」は、2024年10月から放送局をBS朝日に移し、深夜ではなく19時から21時までの「夜まで生放送」の体制で再スタートすることになった。これにはどんな経緯があったのだろう?

「テレビ朝日の幹部から『お話があります』とお呼びがかかって、『ひょっとして番組終了のお達しか?』という嫌な予感とともに出向いていったんです。

『田原さんもお年ですから、深夜はかなりのご負担でしょう』と切り出されて、やっぱり来たかと思いました。ところが『この番組を大事に思っているのは、田原さんだけじゃないんですよ。時間帯や放送媒体を変えたとしても、この番組が続けられるようにしていきませんか』と提案された。

90歳の僕に朝生を続けさせてくれるとは誠にありがたいです」。

放映時間で言えば、「朝まで生」ではなく、「夜まで生」になったが、タイトルはそのままにして、番組は続行することになった。

というわけで、田原の「『朝生』で死ぬ」という願望は、いまだ継続中である。

「もし年内に番組が終わるということになれば、『年内までに死ぬ準備をしなければならないな』なんて家族に冗談を言っていたものですが、そうせずに済んだのは僕にとって、とてもありがたいことでした」。

※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版もお楽しみください。

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編集者、ライター、インタビュアー

編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より30年間で1500を超える企業を取材。財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ビジネス界に脈々と伝わる先人の知恵 業界のセオリー』(徳間書店)、『人を集める技術!』(毎日新聞社)、『はじめての輪行』(洋泉社)などがある。また、出版社の依頼で賞金500万円の小説新人賞の選考事務局を起ちあげ、10年間運営した経験のもと、齋藤とみたか名義で『懸賞小説神髄』(洋泉社)を執筆。それをきっかけに、池袋コミュニティカレッジ「小説のコツ」の講師を2013~2023年の10年間つとめた。

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