【光る君へ】36歳まで皇太子だった三条天皇、道長に望みを阻まれた悲劇の生涯(相関図/家系図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の小説『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ)(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)との愛の軌跡を描きます。
一条天皇(演:塩野瑛久)が崩御し、三条天皇(木村達成)の世となりました。
この三条天皇がどのような人だったか。ドラマでは登場当初から「くせ者」感満載でした。しかし、それも彼の境遇を考えれば無理からんことではあります。
今回は三条天皇の不遇な生涯について解説します。
◆父道長と対立した勇者・中宮彰子、弟たちを仲間にする
最初に、10/27の放送について軽く振り返り。
中宮彰子(演:見上愛)が本格的に政治に参加する意向を示します。入内したころには「仰せのままに」しか言わなかった彰子が、愛を知り母となって、どんどんパワーアップ。
この先彼女は実は父道長以上に朝廷に影響力を持つ存在として君臨します。彼女を支えるのは同じく道長を父とする弟たちです。
ドラマ内でも同母弟2人(頼道・演:渡邊圭祐、教通・演:姫小松柾)だけでなく、明子の産んだ異母弟2人(頼宗・演:上村海成、顕信・演:百瀬朔)も呼び寄せて味方にするなど、なかなかたくましい。
一方で、異母弟(明子の子)の顕信が出家する悲劇も描かれました。
ここで、道長の子どもたちを中心とした家系図を紹介します。
道長の子たちについては、こちらの記事が詳しいです。(関連記事:【光る君へ】彰子出産で「娘の入内」を画策する明子、道長が2人の妻の子に与えた格差の過酷さ(家系図)9/29(日))
彰子は弟たちを味方にしながらも権勢もして、平等に彼らを扱っていきます。私利私欲に走ろうとする弟たちをきっちりと見張り続けたのです。
ご意見番・藤原実資(演:秋山竜次)に「賢后」とたたえられたことからも、彼女の聡明さや公平さが伝わります。
◆正当な後継者なのに不遇と辛酸をなめた三条天皇
◎村上天皇の第一皇子・冷泉天皇の血筋
三条天皇は、冷泉天皇の第二皇子。ドラマでさまざまな物議をかもした花山天皇(演:本郷奏多)の異母弟です。
(参考記事:【光る君へ】花山天皇の実像にせまる~歴史を変えた「女好き」(藤原氏 家系図・相関図)2/12(月))
即位した時点で36歳だった三条天皇。道長の娘で妻となった妍子(きよこ・演:倉沢杏菜)に「おじさん」と呼ばれてしまいます。
当時は寿命が短く、天皇が生前に譲位することも多かったため、10代のうちに即位する天皇が大半。一条天皇のように6~7歳で即位することもありました。
そんな中での36歳での即位はかなり異例なこと。なぜこんなことになったのか。
三条天皇の父・冷泉天皇は村上天皇の第一皇子。本来は正当な血筋はこちらです。しかし冷泉天皇は精神的な病だったといわれ、その在位は短期間に終わりました。
冷泉天皇の譲位時、第一皇子の花山天皇が幼少だったため、冷泉天皇の弟・円融天皇(演:坂東巳之助)が即位。
そこから冷泉系と円融系の天皇が交互に即位する事態となったのです。
冷泉天皇 → 円融天皇 → 花山天皇(冷泉系) → 一条天皇(円融系) → 三条天皇(冷泉系←イマココ) → 後一条天皇(円融系)
三条天皇は11歳から25年もの間東宮の地位に甘んじていました。しかも、一条天皇は三条天皇より4歳も年下です。生涯自分に天皇の地位はまわってこないかもしれなかったのです。
本来ならば、自分の方が正当なのに!という想いもあったでしょう。
三条天皇のやや屈折した性格は、そのような境遇の中で育まれたのかもしれません。それまでのうっ憤を晴らすかのように、三条天皇はわがまま放題で道長をてこずらせます。
異母兄の花山天皇とはまた違った意味でエキセントリックな人物といえるかもしれません。
◎18歳の妻が息子を誘惑?気の毒すぎる三条天皇
妍子に「おじさん」扱いされた三条天皇。18歳年下でまだ18歳の妍子にとってはもちろんのこと、当時の36歳は今でいえば50代くらいの中年の感覚でした。
妍子は大胆にも、三条天皇の第一皇子・敦明(あつあきら)親王(演:阿佐辰美)に「好き」などと迫り、母の藤原娍子(すけこ・演:朝倉あき)に止められていました。
実は妍子と敦明親王は同じ年。高校生の女の子が嫁いだ30代男性の家に、同じ高校生男子がいたら、そりゃあそっちを好きになりますよね…でも絶対ダメ!ですが。
紫式部の『源氏物語』には、父帝の妻(藤壺の宮)と皇子(光源氏)の禁断の恋が描かれます。敦明親王の境遇も光源氏と重なる部分があるので、ここであえてこのような描写をしたと考えられます。
それにしても、同じ両親を持つ姉妹で同じく天皇妃・中宮となる立場でありながら、彰子と妍子はまったく違うタイプ。妍子は道長の娘の中でも一番の美人で派手好きでもあったそうです。
ドラマでは次々高価な品を買い求める妍子を道長がたしなめる場面が登場しましたが、妍子は聞く耳持たず。天皇妃には父でも頭ごなしにしかりつけることはできません。
毎晩のように華やかな祝宴を開く妍子を、姉の彰子が注意したと伝わります。さすがの妍子も皇太后の言葉は無視できなかったでしょう。やはり賢后・彰子さまです!
◎因果応報、忘れたころに再びの「一帝二后」
三条天皇は、その在位期間を通じて道長に抵抗しました。ドラマでも道長に「関白職」を断られると、それならと「娍子を女御(身分の高い側室)に」とうまく駆け引きして自分の言い分を通してしまいます。
娍子は三条天皇の若いころからの妃で、天皇より年上の38歳。三条天皇の子を6人産んでいます。しかし大納言だった父はすでに亡く、後ろ盾のない彼女が女御になるのは厳しかったのです。
三条天皇の抵抗はこれだけではありません。道長が妍子を中宮に立てると、こっそりと画策して娍子を皇后にしてしまいました。
「一帝二后」といえば、「一条天皇の皇后定子と中宮彰子」があまりにも有名ですが、実は三条天皇の後宮でも同じことが起きていたのですね。
◎太皇太后・皇太后・皇后・中宮と三度四后が並び立つ
このとき三条天皇が頼ったのが実資。
三条天皇は儀式の手配を道長の側近・藤原公任(演:町田啓太)に一任し、実資には「別のことを頼みたい」と言っていましたが、このことだったのかもしれません。
中宮や女御になれるのは、本来大臣以上の娘に限られていました。娍子には気の毒ですが、彼女の身分では女御はまだしも中宮にはなれません。
しかし実資の暗躍もあって、再びの「一帝二后」。娍子の父・藤原済時に右大臣を追贈することで、体裁を整えたようです。実資は道長に権力が集中するのを阻止したかったとも考えられます。
かつて彰子を強引に中宮にした道長はかつての自分のおこないで、自分の首を絞めることとなったのです。
問題は「一帝二后」だけではありません。当時は「三后」という決まりがあり、后は「太皇太后」「皇太后」「中宮」の3人のみと決まっていたのです。しかし、またもや四后となってしまいました。
ここで家系図をお見せします!
◆道長に抵抗し続けた天皇、ついに病に倒れる
◎超マイペースでわがままな天皇に道長イライラ
このころ内裏ではたびたび火災が起き、1005年の火災で再建された新内裏へ遷御する前に一条天皇は亡くなりました。一条天皇の崩御からたった3日後の1011年6月25日に三条天皇は「7月11日に新内裏へ遷御する」と道長に命じます。
さすがに早すぎる、と一カ月延期したところ、8月11日は一条天皇の四十九日にあたることが判明。ドラマではそう伝える道長に「四十九日でもかまわん」と鼻で笑う三条天皇。
先帝の法要と引っ越しをぶつけるなど不敬である上、行事が重なれば公卿たちはとんでもなく忙しい一日となります。
それに正直、そんな暑い時期に引っ越さなくても、と思います。天皇は優雅に輿に乗っていればよいのですから、そんなの関係ないのでしょうね。
◎叔父と甥の関係なのに…
そんな三条天皇に道長も負けてはいません。皇后娍子の立后の義は、道長の娘・中宮妍子の参内日と重なっていました。定子の行啓の日に盛大に宴会を開いたように、必ず政敵のイベントに自分のイベントをぶつけて邪魔をするのが道長のやり方だったようです。
本来盛大に開かれるはずの立后の義は、ほとんどの公卿が道長にならって欠席し、たった4人(※)しか出席しなかったと伝わります。(※藤原実資とその兄の懐平(かねひら)、娍子の弟の通任(みちとう)、皇后宮大夫(皇后宮職の長官)の藤原隆家(演:竜星涼))
しかし、家系図からもわかるように、三条天皇と道長は、甥と叔父の関係です。三条天皇の母は道長の姉・超子(とおこ)。(ドラマで三条天皇は道長を「叔父上」と呼んでいましたよね)
なので、姉・詮子(演:吉田羊)の子である一条天皇と立場はまったく同じ。彰子同様に入内した妍子が皇子を生めば、道長は冷泉系・円融系ともに天皇の外戚となれるのです。
◎妍子の出産を機に、どんどん深まる三条天皇と道長の溝
ところが、1013年に妍子の産んだ子は皇女でした。このときの道長は相当がっかりしたようで、その様子がしっかりと伝わっています。その後も妍子は男子を産むことはなく、道長と三条天皇の関係悪化は避けられなくなりました。
1014年、三条天皇は眼病を発症。書状が見られないため、政務にも支障をきたすほどとなりました。これを機にと道長はたびたび三条天皇に譲位を迫ります。
そんな中、たった2年しか使用していなかった内裏が火災で焼失。天皇は道長の私邸・枇杷殿を里内裏(平安宮内裏以外に天皇の在所となる邸宅)として遷御(せんぎょ:移ること)します。
枇杷殿は皇太后彰子の御所でしたが、彰子は天皇のために弟の頼道邸に遷りました。ところが、三条天皇は枇杷殿が気に入らず、本物の内裏と同じ規模に整えよと言い出す始末。
追い打ちをかけるように、さらに内裏の別の建物で火災が起こり、ようやく新造した内裏も2か月後に焼失。
当時、天変地異や厄災は天子(天皇)の不徳によるとされていたため、さすがの三条天皇もこたえるものがあったのでしょう。再度天皇は枇杷殿に遷御し、そこで譲位を決めたと伝わります。
◆天皇家の血筋を一本化
1016年、三条天皇は皇后娍子との間に生まれた第一皇子・敦明親王を東宮とする条件で、後一条天皇に譲位すると、翌1017年に42歳で崩御。
しかし、その数カ月後に敦明親王は、道長の無言の圧力に負けて東宮を辞退してしまいます。
ここで、冷泉系の直系男子の血筋は途絶えました。三条天皇にとってはさぞかし無念だったことでしょう。
しかし、妍子の産んだ禎子内親王は、一条天皇の第二皇子・後朱雀天皇の皇后となります。禎子内親王は後三条天皇を出産。女系ながら天皇家に三条天皇の血筋は残り、冷泉系と円融系をつなぐ役割を果たしたのです。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
◆主要参考文献
紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)