【光る君へ】彰子出産で「娘の入内」を画策する明子、道長が2人の妻の子に与えた格差の過酷さ(家系図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の小説『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ)(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)との愛の軌跡を描きます。
月日が流れ、道長の子どもたちの成長ぶりが描かれます。
道長の正室・倫子(演:黒木華)の子で嫡男・頼通(演:渡邊圭祐)は、姉の中宮彰子(演:見上愛)懐妊祈願のために道長が向かった御嶽詣(みたけもうで)に同行。ついに彰子は懐妊、無事に皇子を出産します。
それに対抗意識を燃やすのは、道長のもう一人の妻・明子(演:瀧内公美)です。
「わたしの産んだ娘・寛子も絶対に入内させる!」明子の迫力には、以前にはあんなに権力欲の強かった兄の源俊賢(演:本田大輔)も言葉を失っていました。
明子の怒りは、正妻の倫子と自分の子の昇進や娘の嫁ぎ先に、道長が明らかに「差」をつけようとしていることにあります。
今日は、2人の妻の産んだ子どもたち12人について解説します。(いつもながら情報量多めなので、興味ある部分だけお読みください)
◆倫子と明子、2人の産んだ子どもたちは何人?
道長は正室の倫子と常に行動を一緒にして、明子とはそれほど会っていなかったと伝わりますが、子どもに関しては2人の妻は平等。倫子も明子も6人ずつの子を産んでいます。
倫子は女子が4人,男子が2人。明子は男子が4人、女子が2人。
摂関家では天皇に入内するために女の子の誕生が望まれました。なので、倫子は正室である上に女の子を多く産んだことで、より尊重されたと考えられます。
◆視覚的に理解できる、家系図で見る格差
家系図をご紹介。ピンク系が倫子、ブルー系が明子の子孫たちです。
ザッと見ただけで、天皇に嫁ぎ中宮(皇后)になっているのは倫子の娘ばかりだとわかります。
◆宮廷における栄華を極めた倫子の子どもたち
◎倫子の子たちは全員が関白・大臣か中宮、東宮妃
正室・倫子の子どもたちは以下の通り。
長女:藤原彰子(988-1074)… 一条天皇中宮。後一条天皇・後朱雀天皇の母
長男:藤原頼通(992-1074)… 摂政・関白・太政大臣
次女:藤原妍子(994-1027)… 三条天皇中宮
五男:藤原教通(996-1075)… 関白・太政大臣
四女:藤原威子(1000-1036)… 後一条天皇中宮
六女:藤原嬉子(1007-1025)…東宮:敦良親王(後朱雀天皇)の妃。後冷泉天皇の母
長女の彰子をはじめとして、娘たちは全員皇妃(天皇・東宮の妃)となっています。男子2人はいずれも関白、太政大臣に昇りつめています。1人ずつ簡単にご紹介。
①70年以上后の地位に君臨したゴッドマザー・一条天皇の中宮彰子
中宮彰子が2人の皇子を産んだことで、道長の家(御堂流)の権勢はゆるぎないものとなりました。
彼女は孫の後三条天皇より長く生き、87歳の大往生でした。弟たちが協調して政務をおこなうよう、にらみをきかせたと伝わります。
・彰子についての詳細はこちら
関連記事:【光る君へ】中宮彰子(藤原彰子)の壮絶な生涯。紫式部との出会いでどう変わる?(家系図/相関図)9/8(日)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/24ba3f73cad54006c2f023616973a4538b7bc959
②最高権力者・道長の嫡男。豪華絢爛な「平等院鳳凰堂」を創建した藤原頼通
26歳で父より後一条天皇の摂政を譲られて以降、3代の天皇の摂関を長く務めた頼通。しかし天皇に入内した彼の娘は子に恵まれず、彼は天皇の外戚になることはありませんでした。
道長の遺言を守ろうとする彰子に実子師実への継承を阻まれて、弟教通に摂関職を譲りました。しかしのちに師実に摂関職の地位は戻り、彼の家系は摂家へと続いていきます。
③美しく派手好きだったと伝わる三条天皇の中宮妍子
9/22(日)の放送で、彰子のもとに弟妹たちが訪れるシーンがありました。最初にお祝いの言葉を口にしたのが次女の妍子(きよこ・演:倉沢杏菜)です。
三条天皇の中宮となった彼女は禎子内親王を産み、父道長をがっかりさせたと伝わります。しかし彼女の血筋は後朱雀天皇皇后となった娘を通じて、天皇家に脈々と伝わりました。
④五男ながら道長の後継者としてスピード出世した藤原教通
上記9/22(日)の放送で、まひろを「誰?」といったのが教通(のりみち・演:加藤侑大)です。教通は26歳で30歳近く年上の藤原斉信や藤原公任を抜き内大臣に昇進。
兄の頼通・師実親子とは後継問題や後宮対策で対立します。嫡子信長は師実や白河天皇に反抗を続けて敗北。以降、教通の家系は没落していきます。
⑤彼女の立后で父道長は「三后」を成し遂げた、後一条天皇の中宮威子
道長の四女威子(たけこ・演:栢森舞輝)は、姉彰子の子・後一条天皇の唯一の后。彼女の立后で、「三后(皇后・皇太后・太皇太后)」をすべて道長の娘が占める前代未聞の偉業を成し遂げました。
しかし2人の娘(章子内親王・馨子内親王)は子を持たずに亡くなったため、後一条天皇の血筋はここで途絶え、道長摂関家の後宮対策にも陰りが生じることとなります。
⑥我が子の即位を見ることなく早世した・東宮敦良親王妃嬉子
道長の末娘喜子(よしこ・演:平尾瑛茉)は、姉彰子の子・後朱雀天皇の東宮(皇太子)時代に入内。親仁親王(後冷泉天皇)の産後すぐに麻疹で薨去。19歳の若さでした。
ドラマで、母倫子が産後体調を崩したというくだりがありましたが、このとき生まれたのが嬉子です。倫子は44歳で現代でもかなりの高齢出産。苦労して生んだ末娘の若すぎる死を倫子も道長も深く悲しみました。
◆独自路線で名家として花開いた明子の子どもたち
◎明子の子たちは最高で右大臣、親王妃
もう一人の妻・明子の子どもたちをご紹介。
次男:藤原頼宗(993-1065)… 右大臣
三男:藤原顕信(994-1027)… 出家(入道前右馬頭)
四男:藤原能信(995-1065)… 権大納言
三女:藤原寛子(999-1025)… 敦明親王妃
五女:藤原尊子(1003-1087?)… 源師房室
六男:藤原長家(1005-1064)…権大納言・御子左家の祖
男子4人のうち1人は出家。残り3人もは右大臣・権大納言で、摂関となった倫子の子には及びません。娘2人も天皇妃になることはかないませんでした。1人ずつ簡単にご紹介します。
①和歌の才があり、多くの女流歌人と浮名を流した藤原頼宗
頼宗(演:上村海成)は異母兄の頼道とよく協調。彼自身は右大臣止まりでしたが、曾孫・藤原伊通は太政大臣までのぼり、頼宗の家系は中御門流として長く続くこととなります。
歌人としても名高く、紫式部の娘・藤原賢子(演:南沙良)や和泉式部(演:泉里香)の娘・小式部内侍などの女流歌人と交際していたと伝わります。
②将来の不安から突然出家した馬頭入道(法名:長禅)こと藤原顕信
17歳で従四位上、右馬頭に任ぜられ、将来を嘱望されていた顕信。
公卿(三位以上の高官)の登竜門である蔵人頭(天皇の首席秘書官)を打診された父道長が「まだ知識が足りず、周りから避難される」からと辞退してしまったことにショックを受けて出家してしまったと伝わります。
道長と明子の嘆きは相当だったようです。
③異母兄弟に対抗し道を切り開こうとた藤原能信
能信(よしのぶ)は多くの事件を起こした乱暴者。彼なりの考えから倫子の子ら異母兄弟と協調することを拒絶します。
権勢を誇る異母兄・頼通に対抗。後朱雀天皇の時代には、頼通の養女の中宮嫄子に対立する皇后・禎子内親王側に立ちます。さらにその子・尊仁親王(後三条天皇)を支援し続けました。
能信の養女茂子と後三条天皇との間には白河天皇が誕生。白河院の時代から院政がはじまり、摂関家の没落へと時代は変化していきます。
④母の「入内」の願いは通じたのか?小一条院(敦明親王)妃寛子
9/22(日)の放送で、明子が「絶対に入内させる」といっていたのは三女寛子のこと。寛子はのちに三条天皇の嫡男・敦明親王(演:阿佐辰美)に嫁ぎます。
敦明親王も初登場。道長の異母兄道綱(演:上地雄輔)に向かって、「狩りに行こうよ。力があり余ってるんだよ」と駄々をこねていた少年(このとき14歳)が敦明親王です。
敦明親王は一度は後一条天皇の東宮となりますが、道長の圧力に負けて辞退。その代わりに「准太上天皇」(退位した天皇に準ずる位)待遇と娘の寛子を与えられました。
敦明親王は天皇にはなれませんが、寛子は入内し「高松殿女御」と呼ばれました。明子の望みは一応かなったといえます。しかし、寛子は敦明親王の前妃・延子とその父・藤原顕光(演:宮川一朗太)の恨みを買い、呪い殺されたと伝わります。
⑤道長の娘で唯一臣下に嫁いだ源師房正室・藤原尊子
夫の源師房は村上源氏の祖にして道長の嫡男頼通の猶子(養子)。摂関家と密接な間柄となった師房は尊子との結婚後グングン昇進。
夫師房も2人の息子(俊房・顕房)も左右大臣に立ち、顕房の娘賢子は白河天皇中宮となって堀河天皇を産みました。天皇に嫁がずとも尊子の血筋は天皇家に受け継がれていったのです。
⑥歌道の家・御子左家の祖として子孫が発展した六男藤原長家
長家の最高官位は権大納言で官職に恵まれたとはいえません。しかし明子所生の子らは和歌に優れた人が多く、長家も優れた歌人でした。
長家の家系は、『千載和歌集』の編者・俊成や『小倉百人一首』の撰者・定家を輩出した歌道の名門・御子左(みこひだり)家として発展していきます。
◆摂家・歌道の家として続く道長の家系
◎長くは続かなかった「娘の出産頼み」の摂関政治
今度はもう少し将来まで描いた家系図をご紹介。
同様に、ピンク系が倫子、ブルー系が明子の子孫たちです。
官位をみると、倫子と明子所生の子どもたちの格差は歴然です。
とはいえ、恵まれたスタートを切った倫子の子どもたちも、未来が安泰なわけではありません。
この家系図からわかるのは、摂関政治の時代、道長が栄華を極められたのは「姉の詮子が一条帝を産み、娘の彰子が皇子を2人(後一条帝・後朱雀帝)産んだから」だったこと。
その後、入内した娘に皇子が生まれず、天皇と姻戚でなくなると摂関家は凋落。そこから摂関政治そのものが崩れ、院政へと時代は変わっていきます。
摂関政治で出世するには、「娘が入内して皇子を産むこと」が必須です。しかし「子を産む」ことは努力だけではいかんともしがたいもの。
特に当時は現代のような不妊治療もなかった時代。「子を産む」という偶発的な要素でしか立身出世できない世は長続きしないのは当然のこと、と感じます。
今も昔も、政務に携わる人はその「実務能力」で選ばれてほしいものですね。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
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https://news.yahoo.co.jp/expert/creators/hinahiyoko
◆主要参考文献
紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)