【光る君へ】母・紫式部より恋愛上手だった藤原賢子の宿命。因縁めいた結婚相手とは?(家系図/相関図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の小説『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ)(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)との愛の軌跡を描きます。
物語はまひろや道長の子どもの時代へ。
今回はその中でも、紫式部の娘・藤原賢子(演:南沙良)にスポットを当てて、その生涯や結婚相手についてご紹介します。『光る君へ』ファンにとってはちょっとショックな内容もあるかもしれません。また、いつもながらネタバレともなりうることはご了承くださいませ。
◆賢子の淡い失恋と道長譲りの一途な頼通
最初に、11/10の放送について振り返り。
◎賢子の失恋と波乱含みの大宰府赴任
大きく描かれたのは賢子の初恋と失恋。賢子は女性の成人の義である裳着(もぎ)を済ませたとはいっても、まだ13~14歳ぐらいです。
「殿様について大宰府(福岡県)に行く」という双寿丸(演:伊藤健太郎)に賢子は「ついていく」といいますが、あっさり振られてしまいます。
母紫式部がいうように「賢子を危険な場所へ連れていけない」と双寿丸は考えていたかもしれません。実際に大宰府で双寿丸は大変な事件に遭遇するのです。
双寿丸の主君は平為賢(ためかた・演:神尾佑)。桓武平氏の血を汲む武者。
平為賢は、眼病治療のために大宰権帥となった藤原隆家(演:竜星涼)に従い大宰府へ行き、隆家とともに九州へ侵攻した海賊(刀伊の入寇)と戦って撃退します。もしかすると、双寿丸も海賊と戦って武功を立てたかもしれません。
刀伊の入寇では300名以上が殺害され、1,000名以上が拉致されるという大きな被害が出ました。
◎一途さは父譲り?道長の息子・頼通の結婚
一方、道長の嫡男・頼通(演:渡邊圭祐)は、具平親王の長女・隆姫女王(演:田中日奈子)と結婚。
隆姫女王は父も母方の祖父も村上天皇の皇子。母方の祖父は源高明(醍醐天皇の皇子)なので、生粋の皇族、とっても高貴な血筋の姫君なのです。
道長は自分自身が皇族の血を引く妻・源倫子(演:黒木華)の家のバックアップのおかげで出世できたため、この結婚にはとても喜んだと伝わります。
しかし頼通と隆姫女王の間には子どもができず、三条天皇から自分の娘(禔子(ただこ)内親王)降嫁の申し出があります。
内親王の降嫁といえば『源氏物語』の女三宮を思い出します。内親王である女三宮に正室の座を奪われた紫の上は女王(父が親王)の身分です。
たとえ隆姫女王のような高貴な女性でも、内親王には正室の座を譲らねばならないでしょう。
ドラマの頼通は「わたしの妻は隆姫女王ただ一人」と熱弁。
この一途さ、父親譲りなのかもしれません。父道長は出世のために高貴な妻を2人も娶りましたが、ドラマの上では、それもまひろとの約束のため。道長は今もまひろとの約束を忘れていないことが、前々回に描かれましたね。一途すぎます!
さて、三条天皇の娘・禔子内親王は結局、頼道の弟・教通(演:姫小松柾)と結婚。教通は禔子内親王の死後、隆姫女王の妹の一人嫥子(せんし)女王と結婚しています。
隆姫女王のもう一人の妹が敦康親王(演:片岡千之助)と結婚した祇子(のりこ)女王(本名不詳・演:稲川美紅)です。結婚してすっかり落ち着いた敦康親王に、皇太后彰子もほっと一安心、でしたね。
そのあたりをまとめた家系図です。右下の方に頼通兄弟の婚姻関係をまとめています。
左側には紫式部の娘・賢子の系図を載せています。賢子の血筋は83代土御門天皇へと続き、現代の皇室につながっています。
◆母・紫式部と同様に藤原彰子に仕えた賢子
◎出世して呼び名が変わっていった賢子
ところで、紫式部の本名は伝わっていないのに、なぜ娘である賢子の本名は伝わっているのでしょうか。
それは賢子が女官となり出世したからです。女性でも位階や役職が与えられると記録に名を残せたのです。
賢子は母同様に、1017年より藤原彰子(演:見上愛)に女房として仕えます。祖父為時の任国の越後国と官名の左少弁から「越後弁(えちごのべん)」と呼ばれました。
母紫式部譲りの文才と父宣孝譲りの社交性をもつ賢子は後宮の人気者となります。
1025年に親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母(めのと)をつとめ、「弁乳母(べんのめのと)」と呼ばれます。1054年に親王が即位すると乳母である賢子は天皇付の女官となり、従三位典侍に叙されました。
夫の高階成章は大宰大弐のため、従三位と太宰大弐を合わせて、賢子は「大弐三位(だいにのさんみ)」と呼ばれるようになりました。小倉百人一首や勅撰和歌集などに記載されているのはこの「大弐三位」の名です。
◆賢子の華麗な恋愛遍歴
◎賢子の最初の夫は宿縁の相手?
前述の高階成章は賢子の再婚相手です。賢子の最初の結婚相手については諸説ありますが、有力視されているのが藤原兼隆。
この兼隆、実は道長の兄・道兼の子。そう、ドラマ初期にそのサイコパスぶりが話題になった道兼です。
ドラマの上では道兼はまひろの母ちやは(演:国仲涼子)を殺害。つまり賢子にとっては祖母の仇です。さらにドラマの世界線では賢子の実父は道長なので、実はいとこでもあるという複雑な関係なのですね。
もし兼隆と結婚した説を取る場合、ドラマではどう描かれるのでしょうか。道兼が亡くなったときに、為時とまひろが彼を許したように見えた描写が、このとき生きてくるのかもしれません。
もちろん実際には、兼隆は賢子にとって、祖母の仇でもいとこでもありません。しかし実資の日記『小右記』や歴史物語『大鏡』には、兼隆は父道兼同様あまりよく描かれてはいないのです。
賢子の最初の夫は、藤原公信とする説もあります。公信は道長の腹心の一人・藤原斉信(演:金田哲)の弟。兼隆も公信も公卿の家柄のためか、賢子は最初の結婚では正室ではありませんでした。
賢子の華麗な恋愛遍歴がよくわかる家系図がこちら。グレイの二重線は、賢子が交際したとされる人物と最初の夫とされる人物です。
賢子は中流貴族(ピンク)出身ですが、恋のお相手は公卿(上流貴族=水色)ばかり。
◎道長周りの男性からの求愛
賢子が交際したといわれている相手は、そうそうたる名前が並びます。
・道長と源明子(演:瀧内公美)の子・頼宗
・藤原公任(演:町田啓太)の子・定頼
・源倫子の異母弟・源時中の子・朝任
最初の夫とされる2人も公卿です。
・道長の兄・道兼(演:玉置玲央)の子・兼隆
・藤原斉信(演:金田哲)の弟(養子)・公信
賢子のお相手は、道長の子、道長の妻の縁者、道長の兄の縁者、道長の腹心の縁者と、道長周りの男性ばかりなのがわかります。これはつまり、賢子が当時のイケてる男性たちにモテモテだったということ。
ドラマでまひろが公任や斉信に「地味な女」といわれていたのとは大きな違いです。華やかでおおらかなところは、父宣孝似だったのでしょう。
ただし、再婚相手の成章は賢子と同じ中流出身です。
・道長の兄・道隆(演:井浦新)の妻・高階貴子(演:板谷由夏)のいとこの子・成章
成章は賢子よりかなり年上のさえない中年男性だったともいわれます。モテモテの賢子がなぜ成章と再婚したのかは謎です。遊び人との恋を経て賢子が最後に選んだのがやさしい男性だった、とも考えられますね。
◎もしかして禁断の恋?
ドラマの中の設定では、賢子は道長の子で頼宗とは異母兄妹。平安時代も「きょうだい婚」は禁じられていました。
『源氏物語』にも、源氏のもとに引き取られた玉鬘(たまかずら)が異母姉だと知って、柏木が落胆するエピソードがあります。
賢子が道長の子と付き合っていると知ったら、まひろも道長も全力で止めるかもしれませんね。(※あくまでもドラマの中での設定です)
◆歌人として活躍、夫も出世させた80余年の充実した人生
◎夫成章の子孫には大河ドラマ常連の意外な人物
双寿丸と一緒に大宰府に行くことはかないませんでしたが、賢子はのちに大宰府を訪問しています。
夫成章は太宰大弐として大宰府に任官しますが、典侍(てんじ/ないしのすけ)の賢子は同行できませんでした。しかし2度、夫に会いに大宰府へ行ったのです。当時は船旅で20日以上かかったと考えられています。
成章は1055年従三位に昇叙。父も祖父も四位五位止まりだった中で成章が昇進できたのは、妻の賢子が後冷泉天皇の乳母をつとめたおかげだと考えられています。
成章の子孫には意外な人物がいます。2022年『鎌倉殿の13人』で鈴木京香さん、2005年『義経』で夏木マリさんが演じた後白河法皇の寵妃・丹後局の本名は高階栄子。
ここで最初に載せた系図を再掲しますね。
丹後局は成章の5代目の子孫にあたります。(残念ながら賢子の子・為家の血筋ではありません)
◎80代まで歌人として生きた賢子
母の紫式部が亡くなったのは1014~1022年ごろだと推定されています。1014年説を取ると、ドラマではそろそろ亡くなってしまう…のかもしれません。40代から50代で亡くなったとされる式部に対して賢子は80代まで生きたと伝わります。
1058年には夫成章が死去。1068年には乳母をつとめた後冷泉天皇を見送り、後三条天皇、さらには白河天皇の代まで生きたとされる賢子。80歳ごろまで歌合に出席して歌を詠んだ記録が残っています。
賢子の生涯は、当時の女性としてはかなり充実したものだったのではないでしょうか。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
◆主要参考文献
紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)