【光る君へ】紫式部の弟惟規を振った女性とは?子孫にはアニメでおなじみの名前も!(相関図/家系図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の小説『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ)(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)との愛の軌跡を描きます。
ついに亡くなってしまった、まひろの弟・藤原惟規(のぶのり・演:高杉真宙(まひろ))。「まひろの弟のまひろは、今日も美しいねぇ」と、おそらく日本中で発せられたに違いない「ダジャレ」をつぶやきつつ、眼福を堪能していたので、残念無念。
もちろん惟規が越後で亡くなることは知っていたので、出立前に彼がまひろと交わす会話の端々に「死亡フラグでてる!」と戦々恐々。いとが用意していた赤い袍(ほう)が冴え冴えと似合いすぎていただけに、若い死が悼まれます。
◆生きて都へ帰りたい!生への想いの伝わる惟規の辞世の歌
惟規についてはほとんど記録が残っていません。わかっているのは亡くなった年だけ。生まれ年や紫式部の兄か弟かも不明ですが、推定では享年36~37歳。
当時の30代半ばは現代の50代くらいの感覚なので、やはり早すぎる死だったといえるでしょう。
なんといっても父為時(演:岸谷五朗)より先に亡くなったわけで、父の嘆きは相当だったようです。
惟規の一番有名なエピソードは、父に漢詩を習っているときに、彼が覚えるより先に横で聞いていた紫式部が覚えてしまったというもの。
漢詩は苦手な惟規も、歌人の家系の名に恥じず、勅撰和歌集に和歌10首が載る勅撰歌人です。
惟規の辞世の歌は
「みやこには恋しき人のあまたあればなほこのたびはいかむとぞ思ふ」
(都には恋しい人がたくさんいるので、このたび(旅/度)は生きて帰りたいと思います)
まだまだ生きたい!という惟規の想いがストレートに伝わりますね。惟規は最後の「ふ」を書く前に力尽きたので、父為時が書き足したという逸話が残ります。
◆大恋愛の末に惟規を振った相手とは?
◎賀茂大斎院選子内親王の女房
惟規といえば、少し前に御所に住む恋人のもとに忍び込んで大騒ぎになっていました。惟規の恋人とは、賀茂大斎院・選子内親王の女房・斎院中将とされています。
斎院中将の主人である選子内親王は、村上天皇の皇女で、円融天皇(演:坂東巳之助)の妹。
斎院とは、京都市内の賀茂神社に奉仕した未婚の皇女のこと。通常は天皇が代わると斎院も任を終えますが、選子内親王は円融・花山・一条・三条・後一条天皇の5代57年もの長期間斎院をつとめ、大斎院と呼ばれました。これはもちろん歴代の斎院の最長記録です。
選子内親王は御所に女房を従えサロンを形成していました。そのサロンは風情があると公卿たちに大人気だったのです。
選子内親王は天皇妃ではないので、天皇の寵愛を競うわけではありませんが、「彰子サロン」のライバルは「前后定子のサロン」だけではなかったのですね。
大斎院サロンの一員である斎院中将について、実は紫式部は『紫式部日記』に書き残しています。
◎斎院の中将に紫式部が物申す!
紫式部は「つてがあって、中将の君(斎院中将)が人に書いた手紙を手に入れた」と書いています。もしかすると、弟の惟規が恋人からの手紙を姉に見せたのかもしれません。
夫宣孝(佐々木蔵之介)が自分の手紙を人に見せたときには、式部はあんなに怒って「送った手紙を全部返せ」といったくせに…と思わず突っ込みたくなりますが、とりあえず流します。
斎院中将の手紙には、「素敵な和歌がわかるお方はわたしがお仕えする選子さま以外にいない」と書かれていて、式部は大激怒。
おいおい、惟規よ、姉に見せる手紙は選びなさい、とここも突っ込みどころ。
どうやら斎院中将は、定子に心酔した清少納言のごとく、選子内親王を敬慕している模様。紫式部は、「そりゃあ確かに、選子さまは素晴らしい方だけれど」と前置きしつつ、自慢する割に斎院の女房たちのつくる和歌は大したことはない、とやっぱり手厳しいのです。
◎斎院中将はどんな人?惟規の関係は?
斎院中将は斎院司長官・源為理の娘で、母は同様に大斎院の女房播磨。一家3人で大斎院を支えていたのですから、盲目的に崇拝するのも無理はありません。
母の播磨は和泉式部(演:泉里香)の姉だともいわれます。恋に生きた情熱的な歌人である叔母に似て、斎院中将も情熱的な女性だったのかもしれません。だからつい、惟規も夜な夜な局に忍んでしまったのかも…
惟規は斎院中将のことを本気で愛していたようです。父について都を離れたくらいだから、中将との間はうまく行っていなかったのだろうという説から、ドラマでは「振られちゃった」としょんぼりしていた惟規。
このときすでに30代半ばで妻も子もいた事を考えると、ちょっと子どもっぽいことは否めない、でも母性本能くすぐる愛され男子だったことは想像できますよね。(いとの溺愛ぶりからも!)
◆実はすごい人々に続く惟規の家系
◎天皇家に伝わる惟規のDNA
若くして亡くなった惟規ですが、その子孫はえらいことになっています。惟規の4代目の子孫(玄孫(やしゃご))(女子)が三条公教に嫁いでおり、三条家の娘はたびたび天皇に入内しています。
三条琮子…後白河天皇女御(子女なし)
三条秀子…光厳天皇典侍(崇光天皇・後光厳天皇の生母)
三条厳子…後円融天皇女官(後小松天皇の生母)
厳子の産んだ後小松天皇は、第100代天皇にして南北朝統一後最初の天皇。後小松天皇の血は子の称光天皇の代で途絶えますが、秀子の産んだ崇光天皇の子・後花園天皇があとに続きました。
惟規を中心とした家系図です!
左下に、後小松天皇の子として一休宗純の名(黄色い囲い)があります。そう、あのアニメでおなじみの「一休さん」です。
◎一休さんの才は学者の家の血筋ゆえかも?
臨済宗僧侶・一休宗純には後小松天皇のご落胤説があり、アニメも実はこの説を取っています。思えば一休さんの母上はどこか謎めいた女性で、母上が登場すると、子ども心にドキドキしたものでした。幼い一休さんが母上に会うこともかなわなかった理由は、そういうことだったのですね…。
一休宗純は早くから詩才があり、13歳で書いた漢詩が評判になったといいます。それも紫式部を生んだ学者の家系の血筋だったせいだと仮定すると、なんだか夢のある話です。(とはいえ、ご落胤説は有力視されてはいるものの、定説ではないため注意)
◆そして当然式部の家系も…
少し前の話ですが、愛子さまが学習院大学で『源氏物語』の研究をされたことから、紫式部が天皇家の先祖であると話題になりました。
そこで、紫式部から天皇家につながる系図も載せてみます。
意外と早く、83代土御門天皇には紫式部のDNAが受け継がれています。
上に載せた惟規の系図では、左上は土御門天皇からはじまっており、載せた順序は逆ですが、この2枚の系図はつながっているのです。(なので一休さんにも式部の血が入っているかもしれませんね!)
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
◆主要参考文献
紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)