大人の日帰りウォーキング これからの趣味はお金をかけず時間を使って 歴史や史跡を楽しむ歩く旅
「青空と、向こうまで続く山と、高速道路だよ」
良人と由美子夫婦は、日本の大動脈の1つである中央道(中央自動車道)に架かる橋を渡りながら、その場所から見える景色を楽しんでいた。中央道は東京杉並区の高井戸ICを起点とし、都内は住宅街を高架橋で通り抜けているが、八王子を過ぎる頃から甲府盆地に抜けるまでは山間部を縫うように通り抜けている。その為か、中央道を車で走るとカーブが多いと感じるが、こうして高速道路に架かる橋の上から眺めてみると、周囲の山よりせり出してくる尾根の斜面を上手く通り抜けているのが良く分かる。
長年働いてきた会社をもう少しで定年する良人と妻の由美子は、これからの趣味の1つとして街道ウォーキングを始めた。五街道の1つである甲州街道を、江戸東京日本橋を出発して、日帰りで歩きつなぎ今日で5回目になる。神奈川県相模原市のJR中央本線相模湖駅を出発し、旧甲州街道を歩きはじめている。途中、旧街道が山道と言うか、獣道のようになっている場所があり、道が分かりづらくて回り道をして歩き進んだので、計画より少し余計に時間がかかってしまった。何とか歩き進むと、中央道の相模湖IC出口付近で中央道を橋で渡った。
五街道と言えば東海道や中山道を思い浮かべることが多く、甲州街道は知名度としてはやや劣るように感じる。江戸東京日本橋を出発し、長野県下諏訪で中山道と合流する甲州街道は、距離が短く、江戸時代の参勤交代でも利用する大名は少なかったと言われているが、江戸幕府将軍の甲府城までの避難路を想定して造られた重要な街道でもあった。現在では東京都内の住宅街を西に一気に突き進み、八王子市を抜けると甲府盆地までは山間部を突き抜ける。
1603年に江戸幕府が開かれる前の戦国時代では、甲斐国の武田氏と相模国の北条氏、武蔵国の対立によりこの区間には街道が整備されていなかったが、争いが無くなった江戸時代に入り五街道の1つとして甲州街道が整備された。その甲州街道は、国道20号や中央道、JR中央線・中央本線が併走しており、現在では人間の生活を支える重要な基盤となっている。そして、古道を旅すれば戦国時代を感じさせられる史跡が残っており、その土地ならではの歴史を楽しみながら歩く旅を楽しめる。
山肌を這うように歩き進む旧甲州街道は、その先で相模川に向かって下り坂になる。車道を縫うように、人が歩いて通れる山道になって当時の旧街道が残されており、風情豊かな歩く旅が楽しみながら、江戸時代の人々もこの道を歩いていたのかと思うと感慨深い。街道脇に並べられている石仏群の眺めながら歩いていると、相模国で三番目の宿場である吉野宿がある。
甲州街道は、東海道や中山道との違いを感じる理由の一つに宿場の多さがある。東海道は約495kmの距離に53か所の宿場であり、中山道は約540kmで57か所の宿場。単純計算で宿場間の距離は約9.4kmであるのに対し、甲州街道では約210kmの距離に44か所もの宿場があり、東海道や中山道の宿場間の距離の約半分の距離(約4.8km)に宿場が作られている。神奈川県相模原から山梨県の笹子峠を越えるまでの山間を抜けていく区間では特に宿場間の距離は短いので、一里(3.927km)毎に造られた一里塚と同じか、それ以上の短い距離で宿場がある。もはや、一里塚よりも宿場の方が多いのではないかという印象である。
吉野宿には高札場(幕府からの知らせと伝える掲示板)跡や、国道20号に出ると吉野宿本陣跡と「ふじや」と書かれた歴史を感じる古い建物が残っている。
「そういえば、車で国道20号を通った時に、この建物を見た事があるわ」
妻の由美子は自分の記憶のページをめくるが、何となく通り過ぎた光景しか印象に残っていない。
当時は旅籠(庶民が泊まれた宿泊施設)を営んでいた藤屋が明治29年の大火で焼失後に再建されて、農業と養蚕業をしていたとある。現在では相模原市登録有形文化財として管理されており建物内は見学ができる。吉野宿の本陣建物は三階建ての土蔵のみが道路向かいに残っている。江戸時代末期にあった本陣建物は木造5階建ての偉容を誇っていたが、明治29年の大火で焼失したと書かれている説明版には、明治時代に撮影されたと思われる五階建て本陣建物の写真があった。
「3階建ての土蔵もすごいけれど、木造5階建てはかなり珍しいよね。江戸末期の建築技術で建てられたのもすごいから、残っていないのは残念」
良人が言うと由美子は、
「本陣を務めていたから、それなりに裕福だっただろうけれど。どれくらいの建築費用が掛かったのかは想像できないわね。サラリーマンの給料ではむりだろうな」
良人は心の中で思った。張り合う必要は無い。素直に現代のサラリーマンでは五階建て家を建てるのは無理だよな。でも、わざわざ比較しなくても良いじゃないか。心も懐も寂しくなるよ。
国道20号の道路脇に廿三夜塔(にじゅうさんやとう)が置かれている吉野橋を渡り、旧甲州街道は国道20号と離れるが、その先で合流している。少し小高い丘を登って降りるようになっている旧甲州街道は、相模川沿いにくねくねと作られている国道20号より距離が短そうである。歩いて旅をしていた江戸時代であれば、少しのアップダウンなら回り道をするよりもそのまま直線で歩き進んだ方が良かったのかもしれない。いずれにしろ、当時は人間が歩いて一番楽な方法で街道が造られた結果、このようになっているのだろう。
「この辺りだけどな」良人が言った。
甲州街道で17番目の一里塚である藤野の一里塚がこの辺にあると言うが、それらしいものが見当たらない。夫婦二人はあたりをキョロキョロとみていると、それらしい説明版を見つけた。
津久井の名物榎か。一里塚であるとは書かれていないけれど、紛らわしく「当時は一里塚に植えられていた」と書かれている。これかもしれないけれど、これじゃないかもしれないよな。
「とりあえず、現物だと書かれているものがないなら、仮)藤野の一里塚として、私が認定しようか」
「由美ちゃんの認定か、説得力に欠けない?」
「余計な事を言わないの!世の中に迷惑をかけていないなら私認定でも問題ないわよね」
まあ、世の中に迷惑をかけていないかもね…。勝手に認定しても世の中に対して発表する訳でないのなら良いのか?良いのか。とりあえず、一里塚を探しながらの旅は楽しいし、見つからない一里塚には残念な気持ちになるので、自分たちの間で勝手に認定して先に進むのも良いかもしれないのか。ま、よいか。自分たちが楽しむことを大切にするか。そして何よりは、些細な事でもめない方が良いに決まっている。
再び、旧甲州街道は国道20号より離れて住宅街の中を進んで行く。どんどん進んだその先で、街道は車が走れない行き止まりになっているその先に古道が残されていた。その古道へ入っていくと江戸時代を感じる。当時と同じ光景だろうな。
古道となった甲州街道は木々が生い茂る中を歩き進む。JR中央本線の脇に出た先の歩道橋で線路を渡るようになっている。自然の中を歩いていると、ハイキングに来たような気分になり楽しい。天気も良いし、空気も美味しい。歩いて運動しているとこんなにも気分よく、楽しいと感じるものなのか。
中央本線を歩道橋で渡ったその先には相模国最後の宿場の関野宿がある。関野宿はこの先の甲斐国に向かい諏訪番所へと続くために重要視された宿場であったが、明治21年の大火により本陣建物含め宿場の面影を残す建物全てが焼失したと説明版に書かれていた。
説明版に書かれている内容を確認し、その場所を写真に収めると、夫婦二人は先に歩き進んで行った。
甲州街道を歩く旅(内部リンク)
前回の話:人生も旅も予定通りとは限らない 柔軟に対応する妻とあたふたする夫の夫婦旅
最初の話:運動に関心が無い夫と別行動、妻がひとり旅を計画したら予想外の展開になった話
番外編:アラフィフ夫婦の歩く旅 あなたと越えたい峠越え