婚活ビジネスの発祥は人材派遣業~結婚時の持参金は敷金のようなもので離婚時は返還が必要
江戸時代に生まれた婚活ビジネス
江戸の庶民は、基本的には自由恋愛だった。農村のようにメンバーが固定された社会とは違い、絶えず人口が大量流入する社会であり、祭りは勿論、お月見・花火大会や潮干狩りなどは男女の出会いの場であり、現在のラブホテル業に相当する「出合茶屋」も繁盛していた。
しかし、そうした自分の力でなんとかなる「恋愛強者」は勝手に恋愛をすることができるが、いつの時代もいた7割の恋愛弱者はそうはいかない。
そんな中で生まれたのが婚活ビジネスというべき仲人業である。
仲人をビジネス化したのは江戸初期京橋の町医者大和桂庵であったと言われる。医者である桂庵は、多数の商家に出入りしているうちに、「うちの息子もいい歳なのでよき嫁になってくれる娘はおらんかね」などの相談をもちかけられるようになる。仕事柄顔が広かった桂庵は、そのネットワークを活用して縁談を次々まとめては礼金を頂くようになる。
気付ければ医者の仕事より稼いでいた。厳密には、桂庵が依頼されたのは縁談ばかりではなく、奉公人や妾の手配まであった。そうなると、桂庵に頼めば、どこか就職口が見つかるという口コミが広がり、逆に働き口を求める人々が桂庵のもとへ殺到するようになる。これが江戸における職業紹介ビジネスのはじまりで、それ以降、縁談や雇い人・奉公人の斡旋を職業とする人のことを「桂庵」というようになった。「口入れ屋」ともいう。
持参金制度という仕組み
儲かるとなれば、縁談を専門とする仲人もこのころ発達する。彼らは、女性が結婚する際の持参金の1割を報酬としていた。
持参金とは、結婚する際に妻が夫の元に嫁入りする際に持参するものだ。女性だけが準備するものではなく、基本的には嫁入り、婿入りする側が用意するものだ。しかし、持参金は夫または妻の金になるわけではない。離婚した場合は、全額返却しなければならないからだ。現在の不動産業における敷金のようなものである。井原西鶴の「世間皮算用」の中には、妻の持参金の利息だけで生活費を賄う夫の話もあったりして、持参金の多寡というのは当時重要だった。
武家と違い、家が決めた相手と顔も見ずに結婚なんてことは庶民の場合はあまりなく、見合いが行われ、当人同士の意思が尊重された。見合いといっても互いに「ご趣味は?」などという会話をする形式ではなく、互いに相手を見るだけというものだった。
仲人が社寺の境内の茶屋などでの場所をセッティングして、それぞれが偶然そこに来たかのように装って、互いの相手の顔などを盗み見したのだ。気に入らなければ断ることもできた。鳥居清長の「社頭の見合」という浮世絵には、互いに相手を盗み見する様子と仲介する仲人が描写されている。
江戸時代も需要と供給による市場原理が徹底されており、器量よしの娘はすぐに縁談がまとまったし、持参金の額も少なくて済んだ。持参金不要の場合もあった。
しかし、仲人は持参金に対して1割の報酬体系だから、持参金がなくては困る。もっと言えば、持参金の絶対額も大きい方がいいわけだ。
そうすると、器量のよろしくない娘に多額の持参金を付けて、無理やりでも縁談をまとめようとする仲人も出てくる。はっきり言って当事者の好意の有無はどうでもよく、縁談さえまとまればいいのである。
持参金目当ての結婚も
落語にもその名の通り「持参金」という噺がある。男は縁談の相手が器量悪しと聞いて即座に断るのだが、持参金の大きさを聞いて目の色を変える。相手のことを見もせずに、すっかり結婚する気になってしまうくだりがある。こうした持参金目当ての結婚は、当たり前のことだったのだろう。
そもそも、仲人は、何も他人の幸せのためだけに骨を折っていたわけではない。あくまでビジネスである。だから、結婚しても、離婚して再婚してくれた方が、またビジネスチャンスが増えるというものだ。まさに「結婚を売り買いする」時代だった。江戸時代に離婚再婚が多かったというのもそういう制度によってもたらされてものかもしれない。
そんなあこぎな仲人を皮肉った川柳も残っている。「仲人の 命限り うそをつき」。仲人は、ある種嘘つきの代名詞にもなった。今でもいう「仲人口に注意」はその名残りである。
先ほどの茶屋での見合いの話に当てはめれば、見合いの場には器量よしの替え玉を用意して、いざ婚礼の席で顔を確認したら全くの別人だったなんて話もあるくらいである。「顔が違う」と文句を言ったところで後の祭りである。
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