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眼病に罹った三条天皇。譲位するまでの裏事情とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、三条天皇が目の病気に罹り、困り果てた様子が描かれていた。結局、三条天皇は譲位することになるが、その間の状況を確認することにしよう。

 寛弘8年(1011)、危篤になった一条天皇は、三条天皇に譲位した。三条天皇は、一条天皇よりも年長だったので、念願していたことだろう。三条天皇を支えたのが、藤原道長であるが、2人の関係は必ずしも良いわけではなかった。

 正暦2年(991)、藤原娍子(済時の娘)が三条天皇に入内し、2人は第一皇子の敦明親王を授かった。ほかにも、三条天皇には藤原綏子(兼家の娘)、藤原原子(道隆の娘)が入内していたが、2人は若くして亡くなっていた。

 寛弘7年(1010)、道長の娘の妍子が三条天皇に入内した。三条天皇の即位後、道長の娘・彰子と一条天皇との間に誕生した敦成親王(のちの後一条天皇)が立太子されたが、道長はこれに満足しなかった。

 道長が三条天皇を支える以上、娘の妍子を中宮にと考えるのは自然なことである。しかし、三条天皇は妍子を中宮にする一方で、長年連れ添った娍子を皇后にしたのである。三条天皇は親政を志向しており、このことも道長との確執を生じることになった。

 長和3年(1014)、三条天皇は目の病気に罹り、やがてほとんどの視力を失ったという。これは致命的なことで、政務に支障をきたすことになった。見かねた道長は、三条天皇に譲位を促したのである。

 三条天皇は譲位したくなかったので、道長に対して頼通(道長の子)への皇女禔子内親王の降嫁を申し出た。当時、頼通には隆姫(具平親王の娘)という妻がおり、応じる気配がなかった。結局、この縁談は破談となり、三条天皇の譲位も先延ばしになった。

 長和5年(1016)、三条天皇は病状が好転しなかったので、敦明親王を皇太子にするという条件を付けて、後一条天皇に譲位した。しかし、敦明親王が皇太子になることはなく、三条天皇は無念の思いを抱きつつ、寛仁元年(1017)に亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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