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75年前の真珠湾攻撃 立案には世界で初めて作られた日々の北太平洋天気図が活用された

饒村曜気象予報士
ハワイ アリゾナ・メモリアル ミュージアム(写真:アフロ)

作成に半年

世界初の広域天気図を作ったのは神戸にあった海洋気象台(現在の神戸地方気象台)で、大正12年1月1日から毎日の北太平洋天気図が作られました(図1)。現在のように、船舶から無線で即時的に気象情報を集めることはできず、船舶が日本の港についてから海上気象報告を受け取って作成です。

このため、作成に半年以上かかりました。

世界初の広域天気図は、大正12年1月1日の天気図ですが、発刊はこの日付けから半年以上たった8月になってからです。

図1 世界初の広域天気図である北太平洋天気図(大正12年1月1日)
図1 世界初の広域天気図である北太平洋天気図(大正12年1月1日)

最初の「北太平洋天気図」の緒言には、「本図は、大正9年11月以来出版してきた週間天気図を拡張せるもので、週間天気図は、その区域が東アジアやその周辺海域に限られているため、海洋気象研究の資料としては少し物足りなかった(意訳)」と記されています。

真珠湾攻撃の立案に活用

北太平洋天気図を毎日作成したことにより、北太平洋についての多くの知見が得られています。

船舶関係者の膨大な寄付でできた海洋気象台は、毎日作成した北太平洋天気図から多くの知見を得て、その知見を船舶関係者に還元していたのです。

大正時代は、他の分野の科学と同様に、気象学や海洋学においても、それまでの諸外国から学ぶ一方の時代から、ようやく自立しはじめた時代でもある。海洋気象台の設置は、優れた施設とあいまって、学問の発展に寄与した多くの人材を生みだしました。

そして、北太平洋天気図は、ほとんど唯一の貴重な資料として活用されたのです。

今から75年前の昭和16年12月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦となっていますが、ハワイ奇襲作戦を立案に重要な判断材料として、10年分の北太平洋天気図が活用されています(「気象百年史」より)。

北太平洋天気図から、11月下旬から12月上旬のアリューシャン列島の南海上は、暴風が常に吹き荒れて波が高く、船舶が全く航行しなくなることを確認しての計画です。

暴風が常に吹き荒れている中を航行し、アメリカ側に気がつかれることなくハワイの北方海上に達することができるとしての立案です。

1ヶ月ほど前に、日米関係悪化を受けて最後の引き揚げ船としてアメリカから日本へ向かった「氷川丸」の航路は、もちろん作戦行動中の「赤城」の航路より南の海上を西に向かっていました。

真珠湾攻撃時に行った高層気象観測

空母「赤城」は、第1航空艦隊(指令官:南雲忠一中将)の旗艦として、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴という5隻の空母とともに真珠湾奇襲作戦を行っています。

図2 観測記録の表紙
図2 観測記録の表紙

その空母「赤城」の昭和16年12月分の海と空の観測記録](図2~図4)を見ると、北緯43度線に沿って日付変更線を超えて東へ進み、5日からは図3のような観測をしながらハワイ諸島に向かっています。

図3の時刻は日本時間で、19時30分を引くとハワイ時間になります。

図3 真珠湾攻撃時に行われた空母「赤城」の高層気象観測
図3 真珠湾攻撃時に行われた空母「赤城」の高層気象観測
図4 空母・赤城の海上気象観測記録
図4 空母・赤城の海上気象観測記録

空母「赤城」の観測結果によると、北緯30度以北では、2、000メートル付近まで西よりの風が吹いていますが、北緯25度付近の攻撃隊を発進させた海域では、発進の半日前、直前、直後の3回の観測とも、2、000メートルまで、毎秒10メートル以上の東風が吹いています。

つまり、偏東風が吹いている緯度まで南下してから攻撃機を発進させたのです。

真珠湾攻撃時の空母「赤城」では、通常使う風船よりやや大きめの85.5グラムの風船を用い、通常の上昇速度よりやや早い1分間に250メートルという上昇速度になるように水素をつめています。早く観測を終えるための工夫と思います。

そして、この方法で観測ができるのは気球が見えなくなるまで(雲に入るまで)です。

12月7日23時05分の空母「赤城」の高層気象観測では、高さが2キロメートルまで観測したあとに雲の中に入り、観測は終わっています。

気球に発信機をつけ、観測データを無線で得るという、現在使われているラジオゾンデという新しい技術は既に完成していました。この新しい方法なら、雲があっても高いところまで観測が可能ですが、アメリカに日本の連合艦隊の所在を知られてしまう可能性があり、あえて新しい技術は使わなかったと思います。

気象で被害を受けても凌駕する工業力

太平洋戦争中、日本海軍は、太平洋の気象や海象についての知識をフル回転して、台風などによる被害を受けずに戦いました。

これに対し、太平洋の知識が十分でないアメリカ海軍は、台風などにより、多数の艦艇がたびたび被害を受けています。

太平洋戦争末期のレイテ戦の最中、アメリカ艦隊は台風により真珠湾に次ぐと言われた大きな被害を出しています。さらに、沖縄戦のときもアメリカ艦隊は台風で大きな被害を出しています。 

しかし、実際の神風が吹いて被害を出しても、日本を凌駕する工業力ですぐに復活し、戦争の帰趨には影響していませでした。

戦争終結後、日米は協力して太平洋の観測を行い、船舶の安全航行などに対して、多くの成果を残してきました。

そして、真珠湾攻撃から75年後の今年の12月下旬に、安倍総理大臣が真珠湾を訪れ、戦後初の総理大臣として慰霊を行うことが計画されています。

戦争という不幸な出来事がありましたが、両国間のより一層の友好関係が発展しています。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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