太平洋戦争・レイテ戦でのアメリカ軍は、台風で真珠湾に次ぐ大きな被害
太平洋戦争初期の昭和17年3月1日、破竹の進撃を続ける日本軍の前に、アメリカの南西太平洋方面司令官のダクラス・マッカーサーは、「私は必ず帰ってくる」と言ってフィリピンを去っています。
その2年半後の昭和19年10月20日、アメリカ軍の主力がレイテ島へ上陸を開始し、マッカーサーは「私は帰ってきた」と自由の声放送局より第一声を放送しています(図1)。
12月16日、アメリカ軍はルソン島決戦を期して日本軍の虚をついてミンドロ島へ主力をもって上陸開始をします。レイテ島では米軍残留部隊が日本の敗残兵約1万3千人と激戦が行われていました。
このとき、台風がアメリカ軍を襲います。
アメリカ軍を襲った神風
12月18日、航空母艦の空中兵力をもってマニラ周辺の日本車を攻撃する目的で,フィリピン東方海上で艦隊内の給油作業をしていたアメリカ第3艦隊(ハルゼイ提督指揮)が台風に巻きこまれます(図2)。台風の進路を確実に予測できなかったためで、午後1時半には中心から70キロメートルまで接近し,風速も93ノット(毎秒45メートル)を記録しています。
この嵐の中で、スペンス(2050トン)、ハル(1350トン)、モナガン(1350トン)という3隻の駆逐艦が転覆・沈没するなどなどで、700名以上が死亡しています(表)。
「一回の戦闘であれば、真珠湾攻撃に次ぐ」とまで言われた被害でした。
実際に本当の神風が吹いたのですが、この事実は、徹底的に隠され、損害を補う補給が行われました。
フィリピンの東海上は、初冬といっても記録的な発達をする台風があります。
グアム島を襲って毎秒105メートルの最大瞬間風速を観測した平成9年の台風28号や、フィリピンで高潮により5000人以上の死者をだした平成25年の台風30号が、その例です。
神風が吹いたのですが、アメリカ軍の反攻のスケジュールが少し遅れただけで、大勢に変化はありませんでした。
図2は、アメリカが後から作った天気図ですが、当時の日本の天気図には、フィリピンの東海上には低圧部があるだけで、台風は解析されていません。
日本は神風があったこともわからず、仮にわかったとしても、その神風を活かすだけの力もなかったのです。
ピュリッツア賞を獲得した「ケイン号の叛乱」
アメリカ軍を襲った台風を題材にした小説「ケイン号の叛乱」は、出版社の予想に反して230万部も売れ、「風と共に去りぬ」以来のベストセラーになり、昭和26年度の最優秀小説としてピュリッツア賞を獲得しています。
荒れ狂う海にもまれながらケイン号の中では、艦長と先任将校の間にそれまで長く続いていた対立が爆発する。きっかけは,艦隊命令のコースをとろうとする艦長と、それは台風の中心に向かうことになるから、と針路を変えさせようとする先任将校。ついに先任将校は艦内で軍法会議を開き,艦長を精神病と断定して指揮権をうばう。そして……という話です。
この小説のどこからどこまでが事実なのかはよくわかりませんが、「ケイン号の叛乱」の作者H.ウォークは、太平洋戦争が始まると海軍士官に志願し、駆逐艦ゼエン号に乗り南太平洋を転戦しています。小説の中でケイン号は,第一次大戦時に多くつくられた4本煙突の老朽した駆逐艦となっていますが、作者の乗っていたゼエン号も、まさにそういう艦でした。
アメリカ国防省に衝撃
台風によって、大きな被害を受けたアメリカ国防省は大きな衝撃を受けました。
台風情報の重要性を実感したのです。
このため、翌年から太平洋の台風についての観測や予報を行う組織、空軍と海軍合同の組織ができ、それが発展したのが「合同台風警報センター(JTWC)」です。
太平洋戦争では、種々の失敗を反省材料に変える行動力と、それを支える国力が勝敗をわけたのではないかと思います。
台風から日本を守っていたB-29爆撃機
戦争が終わり、合同台風警報センター(JTWC)は、太平洋地域の台風防災に大きな貢献をします。特に、飛行機を用いた台風の観測は、台風情報の飛躍的な向上をもたらし、台風防災に果たした役割は大きいものがあります。
爆撃機B-29は、丈夫な機体と長い航続距離、観測機器を積める広いスペースを持っており、台風観測に適した飛行機でした。このため、B-29は台風観測用のWB-29に改造され、定期的に広い海上をパトロールし、発見した台風についてはその台風が無くなるまで台風の中心に飛び込んで重点観測を行っていたのです。
皮肉なことに、日本の都市を焦土にしたB-29は、台風から日本を守るために観測していたのです。
図表の出典:饒村曜(2002)、台風と闘った観測船、成山堂書店。