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日米開戦間近 最後の引き上げ船・氷川丸の海流と海上気象観測記録

饒村曜気象予報士
氷川丸と横浜ベイブリッジ(写真:アフロ)

第一次大戦後、アメリカとカナダは大型船を次々と北米とアジアを結ぶ航路に投入してきたことに対抗するため、日本郵船が政府の支援を受け、神社の名前がついた6隻の豪華な優秀船を建造しています。

昭和5年(1930年)に三菱横浜造船所で建造された氷川丸をはじめ、平安丸、日枝丸、浅間丸、龍田丸、秩父丸の6隻です。

図1 氷川丸の海上気象報告(部分)
図1 氷川丸の海上気象報告(部分)

最後の引揚船

豪華な優秀船のうち、埼玉県大宮市の氷川神社から名付けられた氷川丸は、アメリカのシアトルと日本を結ぶ航路に投入されました。

軍艦氷川と称されるほどの乗組員のきびきびした動きと、おいしい料理などのサービスで人気を博し、昭和7年に日本から帰国する喜劇王チャップリンは、あまたの誘いを断って氷川丸を選んで乗船しています。

しかし、日米関係が悪化し、昭和16年8月にシアトル航路が休止となります。そして、氷川丸は、政府徴用の引き揚げ船として北米に向かっています。

氷川丸の海上気象報告によると、10月20日16時5分に横浜を出発した氷川丸は、カナダの晩香披(バンクーバー)に11月1日4時0分に到着、12時間30分後の16時30分にアメリカの紗市(シアトル)にむけて出港、シアトルには2日の1時40分に到着しています。

図2 氷川丸の海流報告(部分)
図2 氷川丸の海流報告(部分)

シアトルから最後となった引揚者368名を乗せて出向したのが4日の18日50分とシアトルには65時間の滞在でした。

そして、横浜への帰着が18日19時55分となっています。太平洋を往復する間、1日4回(6時、12時、18時、24時)の海上気象観測(風向、風力、気圧、温度、雲量と雲の種類、天気、視程、海水温度、波浪の向きと階級、ウネリの向きと階級)、及び、1日1回(12時頃)の海流観測(海流の方向と速度)が行われました。

太平洋戦争中は病院船

氷川丸は、アメリカからの引揚者を載せて横浜に戻ると、海軍に徴用されて病院船に改造され、運営は戦時下の商船を一元管理していた船舶運営会が行うことになります。太平洋戦争中の氷川丸は太平洋の激戦地を西へ東へと移動していますが、その活躍はドキュメンタリー映画「海軍病院船」として紹介され、一般国民の間でも有名な船になります。

氷川丸は北の海で荒天の中を航行することを想定し、船窓を小さくて少なく作り、船体も普通は10ミリの厚さの鉄板で作るところを15ミリでつくるなど、とにかく丈夫に作られた船でした。

このため、戦争中に3回も機雷にふれて船倉に穴があいていますが、とにかく生き残っています。

戦後の氷川丸

戦後の氷川丸は、昭和20年10月から在外邦人の引き上げ、それも病院船であったために特に激戦地からの引き上げに使われました。

昭和22年1月には病院が解散となると、こんどは貨物船として、北海道の石炭や食料を関西に運搬しています。

船舶運営会が解散し、氷川丸はようやく日本郵船の戻され、氷川丸の戦争時代は終わったのは、昭和25年4月1日です。この年の8月15日になると、連合軍総司令部(GHQ)が日本商船の米国渡航を不定期貨物船に限り許可することになったため、日本郵船はさっそく氷川丸をポートランドに配船します。

9月15日にポートランドについた氷川丸は、戦後始めてアメリカを訪れる日本商船ということで歓迎をうけています。

しかし、占領国である日本の船は、日の丸の国旗を立てることができなかったので、国連旗を掲揚しています。

フルブライト交換留学生と氷川丸

昭和27年2月になると欧州定期航路が解禁となり、氷川丸は定期貨客船として復帰しています。また、7月にはシアトルとの間を不定期の準客船としても運航しています。

こんなときに、フルブライト交換留学生を運ぶという話がでてきます。

これは、アメリカのフルブライト上院議員が「人物交流を通じて他国の相互理解を深めることが平和につながる」として作った奨学金制度で、日本はアメリカと昭和26年に二国間の教育交換計画に関する覚え書きが交わされたことによって始まっています。

フルブライト委員会から「輸送に氷川丸を使いたい」との申し出があったことによって氷川丸の改装が急遽行われ、昭和28年7月28日にフルブライト交換留学生94人を含めた192人の旅客を載せて横浜を出航しています。

これが戦後初の定期貨客船としての北米航海です。

その後、氷川丸は昭和35年に引退するまで、2500人ものフルブライト留学生を運んでいます。

平成14年5月18日に日本郵便株式会社から「日米フルブライト交流50周年記念」の80円切手が発売されましたが、このデザインにあるのが氷川丸です。

横浜の山下公園で今も現役

氷川丸も、よる年波には勝てず、故障がちになったことや、シアトル航路が赤字になってきたことから昭和35年8月25日に横浜を出航し、バンクーバーやシアトルに寄港、10月3日に神戸入港の航海が最後の太平洋横断の航海となっています。

氷川丸はそこで解体されるところでしたが、横浜市は昭和36年が海港100周年になることから記念として氷川丸を誘致、市民のバックアップ等もあって、現在のように横浜の山下公園桟橋に係留されて、博物館兼高級レストラン等に使われています。博物館での過去の展示ではなく、現在も使われているという意味で、氷川丸は世界にも希な船と言うことができます。

「氷川丸」の海上気象報告

日本の商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通のコレクション(神戸コレクション)には、1930年の建造から1960年の引退までの31年間のうち21年、のべ486枚の海上気象報告が残されています。残されていないのは、ほとんどが船舶運営会に属していた期間です。

氷川丸を含む神戸コレクションの海上気象観測記録は、気候問題を解明するための貴重な海の資料として各国から注目を集め、計算機処理がしやすいようにデジタル化されています。

氷川丸は、日米間を何度も往復し、乗船した人々によって多くの歴史を作っていますが、その乗組員が観測した記録も、私たちの将来の歴史を作る貴重な財産としてよみがえっています。

図の出典:饒村曜(2010)、海洋気象台と神戸コレクション 歴史を生き抜いた海洋観測資料、成山堂書店。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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