【京都市】山科区 平安時代の武将『坂上田村麻呂』の遺跡巡りをしながら歴史ロマンに浸る♪
「坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)」という人をご存知でしょうか?
今から1200年ほど前の平安時代初期の武将である「坂上田村麻呂」は、平安時代の公卿であり武官です。
桓武天皇より801年に征夷大将軍として任命されて、蝦夷(えみし)(現在の東北地方)討伐。奥州陸奥(むつ)の平定にあたり、胆沢城などを築きました。
蝦夷である阿弖流為(アテルイ)は仲間の母礼(モレ)と共に、征夷大将軍だった坂上田村麻呂に降伏、坂上田村麻呂は政府に2人の助命嘆願をするために平安京(京都)へ連れてきます。
阿弖流為(アテルイ)は蝦夷の領袖でした。
田村麻呂の除名嘆願も虚しく、アテルイらは朝廷によって死罪を申し渡されます。河内国植山で処刑。枚方の「片埜神社」横の公園にその首塚があると聞き早速行ってみました!
牧野公園内に存在するアテルイの「首塚」と伝わるそう。公園ではのどかな感じで子供達が賑やかに遊んでました。
「片埜神社」には、鬼門の方向へ向けておくと厄除になると言う御利益があるお面(般若)がありました。片埜神社が大阪城の艮鬼門鎮守の役割を担ったということからだそうですが、どうやらアテルイらも鬼と呼ばれていたらしいですね…
そして、そのアテルイとモレの石碑が、なんと京都の世界遺産「清水寺」にもあります。
じつは「坂上田村麻呂」は、京都随一の観光名所である『清水寺』の創建にも深く関わっている人物です。
「清水寺」過去記事ご参照ください→世界遺産『清水寺』の「清水の舞台」の美しさ♪
坂上田村麻呂に関する伝説は数々あり、田村麻呂は赤ら顔のひげづらで怪力の持主、眞の勇者とされます。伝説の一つに、伊勢の鈴鹿山にいた鬼の美女「悪玉」と結婚し、その妖力も手に入れたと言われるものも…
病によりその生涯を終えた田村麻呂は、享年54歳でした。
田村麻呂が亡くなったのを悲しんだ嵯峨天皇は、遺骸に甲冑を着せ、弓矢などを持たせて武装し立った姿で葬ったと言われています。
死してなお、平安京を守ってくれているようです。
また、国家に危険ある時は塚の中で大きな音がしたといわれ、これを「將軍塚鳴動」というそう。
今でいう、東山の將軍塚が一般的には有名となりますが、本来の「將軍塚」はこの墓であると伝わります。
また、少し離れたこの「西野山古墳」の中に本当の坂上田村麻呂の墓があるという説も…伝説が多いだけロマンも広がりますね!(諸説あり)
山科にある「中臣遺跡」と言われる場所に「坂上田村麻呂」の墓はあります。
「高津商会」でも甲冑など武将体験などできますが、さすがに「坂上田村麻呂」になりたいと言ってきた人はまだ聞いたことがありません…w
私も、「坂上田村麻呂」という人にとっても興味を持った時期がありかなり深堀したことがあるほど興味深い人物です。
「坂上田村麻呂」を祀る滋賀県「田村神社」では、平安時代初期から行われている祭り『田村まつり』(2023年2月17日~2月19日)が行われます。812年の凶作により疫病が流行した際、嵯峨天皇が坂上田村麻呂の霊験によって災厄を祓うように勅命を発し三日三晩にわたる祈祷が行われ安泰したことが起源。日本全国で田村麻呂を祀るところがありますね。
田村麻呂ロマンをぜひ、感じて見られてください〜♪
坂上田村麻呂の墓(将軍塚)
京都市山科区勧修寺東栗栖野町