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そしてイスラエルと戦うふりを続ける「イスラーム国」

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 2024年は、本邦の災害や事故がなくとも憂鬱な幕開けとなった。1月4日にはイランのケルマーンで多数が死傷する爆破事件が発生し、翌5日に「イスラーム国 イラン」名義で「犯行声明」が出回った。実はこの声明、「イスラーム国」にとっては単にイランの東方の田舎でラーフィダ(注:シーア派の蔑称)300人以上を殺傷した程度のことを誇るつまらない作品ではない。日本時間の5日早朝、「イスラーム国」の最重要の広報を担う「フルカーン機構」が同派の公式報道官の演説の音声を発表し、そこでユダヤとその同盟者を地上のどこででも攻撃せよとの扇動をし、これを受けて「イスラーム国」の戦果発表はそれこそ地上のどこで何を撃っていようが「ユダヤとその同盟者を攻撃する」攻撃というストーリーのもと「かれらに会えば、何処でもこれを殺しなさい(コーラン第2章191節)」攻勢と題する統一的な作戦行動の一環と位置づけられるようになった。ケルマーンでの殉教志願者2人による爆破事件は、この攻勢の戦果の先頭を切る名誉ある作戦だったのだ。

 パレスチナを含む中東地域で現在進行中の戦闘が「イスラム教徒(ムスリム)」対「ユダヤ教徒やキリスト教徒」との「宗教戦争」であると誤認しているシロートさんたちには、なぜ「イスラーム国」の「ユダヤとその同盟者」との戦いの先陣が「イランへの攻撃なのか」理解できないだろう。というのも、はた目から見ればイランは間違いなく「宗教戦争」でイスラームとムスリムの陣営の一員だし、実際にイスラエルとそれを支えるアメリカと戦火を交えているからだ。現在イスラエルやアメリカと戦う当事者は、全て「抵抗の枢軸」を自称する陣営を構成する国や団体で、「抵抗の枢軸」陣営に兵器・技術・資金・訓練を提供する当事者としてイランはなくてはならない存在でもある。「イスラーム国」が本当にユダヤ(≠イスラエル)と戦う意志と能力があるのなら、なぜ同派はイスラエル(≠ユダヤ)と現に戦火を交えているイランを後ろから撃つような真似をして、それを「ユダヤとその同盟者に対する」戦果として誇るのだろうか??

「イスラーム国」がいろいろな「大人の事情」によってイスラエル(≠ユダヤ)と戦うふりをし続けてきたことはこれまでも再三指摘してきた。同派は、地上の政治情勢を「正しいムスリムとそれ以外」という粗雑な二分法でしか認識できない程度に賢いので、ある時は(はた目から見れば明らかに無関係な攻撃対象を)「イスラエル(≠ユダヤ)の手先」と呼びかえることでイスラエル(≠ユダヤ)を攻撃するふりをし、またある時は「生きる価値のない背教者」としてバカにし続けてきた別の当事者の対イスラエル(≠ユダヤ)戦果に便乗してユダヤ(≠イスラエル)への攻撃を扇動してイスラエル(≠ユダヤ)と戦ったり、パレスチナのムスリム同胞を支援したりするふりを続けてきた。そのようにしながら、実際の「イスラーム国」の行動はイスラエル(≠ユダヤ)と本当に戦う諸当事者を後ろから撃つことに終始しているのだが、これを正当化する「イスラーム国」の論理は、5日の公式報道官の演説をちょっと聞き流せばそんなに難しいものではない。

 演説は、最初に「イスラーム国」、またはアッラーのために戦う者たちがそうする理由を、「不信仰者を殺すこと」と規定した。そう、「イスラーム国」とその支持者やファンが存在する唯一の目的であり論理的よりどころはこの一言であり、それ以外に説明する言辞は必要ない。となると、現在起きていることは「ムスリム(注:こちらがムスリム)に対するユダヤ(注:こちらが不信仰者)の戦争」以外には見えなくなる。「イスラーム国」にとって、パレスチナでの闘争は(世俗的な)国家の樹立のためとか、祖国や民族の解放のためとか、寸土を争って境界線を決めるためとかの「不信仰な」もののためではなく、地上の不信仰者を皆殺しにしてイスラームに奉仕するためだけのものだ。そのため、闘争を正当化する根拠は、国際法でも人定法でもなく、イスラーム法のみとなる。となると、イスラエル(≠ユダヤ)やその庇護下の入植者がエルサレムのアクサー・モスクを侵害しようとしまいと、ムスリムがユダヤ(≠イスラエル)と戦うのはユダヤ(≠イスラエル)が不信仰者だからであり、それ以外の理由はいらない。その結果、現在展開している戦闘で「抵抗の枢軸」側が政治的成果を上げることは、「イスラーム国」から見ると成功でも解放でも何でもない。むしろ、イスラームに反する統治を樹立するという不正の継続でしかない。そう、「イスラーム国」にとって「抵抗の枢軸」とは、ユダヤ(≠イスラエル)や十字軍に劣らない害悪であるラーフィダと、それにすり寄る世俗主義者、愛国主義者、民族主義者に過ぎないのだ。これらを後ろから撃つことは、「イスラーム国」にとっては当然かつ正当なことなのだ。

 さらに、「イスラーム国」はイラン(=ラーフィダ)に与しなくとも現在の戦闘に関与するアラブ諸国の為政者も、ムスリムに対するユダヤ(≠イスラエル)と十字軍の戦争の一部とみなす。巷には現下の情勢の「停戦」や「政治解決」に欠かせない当事者と信じられているエジプト、ヨルダン、アラビア半島諸国も、「イスラーム国」から見れば間違いなく敵なのだ。こうして、「イスラーム国」は現在の戦いを単にユダヤ(≠イスラエル)との戦いにとどまらない「ユダヤそのものよりも大きなユダヤの同盟者との戦い」に変換する。その結果、「イスラーム国」は世界中あらゆる場所で、民間も軍事も問わずユダヤ・十字軍を攻撃するよう扇動する。攻撃対象は、敵方が無差別に攻撃してくる以上こちらも区別や情けは無用であり、むしろ「ソフトターゲット」への攻撃が推奨される。具体的に挙げられたのは、民間施設、シナゴーグ、教会であり、アメリカ、ヨーロッパ諸国、ワシントン、パリ、ロンドン、ローマなど不信仰諸国の本拠だ。

 これを受けて「イスラーム国」による「かれらに会えば、何処でもこれを殺しなさい(コーラン第2章191節)」攻勢の華々しい戦果を眺めてみると、戦果は冒頭で挙げたケルマーンでの自爆攻撃をはじめ、シリアでの政府軍・親政府民兵への攻撃、イラクでの「イランの民兵」への攻撃、そしてアフリカ各所での「いつもの」攻撃を攻勢の一環と位置付けた攻撃だけで、肝心のユダヤ(≠イスラエル)には何の攻撃もしていない。当該の攻勢があと何日続こうが、これが変わるとはちょっと考えにくい。結局のところ、「イスラーム国」は世界を粗雑に二分する世界観の下、客観的には実際にイスラエル(≠ユダヤ)と戦っている当事者を撃ってそれをユダヤ(≠イスラエル)に対する戦果として誇るということになる。「イスラーム国」にとってはユダヤも十字軍もラーフィダもアラブの為政者もみーんな同じで、ユダヤ(≠イスラエル)を攻撃しなくてもラーフィダさえ殺しておけば仕事をしたつもりになることができる。これをイスラエルやアメリカから見れば、自分たちと対峙する敵(=「イスラーム国」がラーフィダと呼ぶ「抵抗の枢軸」陣営)を背後から激しく攻撃し、なおかつ決して自分たちには銃口を向けてこないわけだから、これほど頼もしい仲間は他にいない。アメリカやイスラエルにとって、本来は敵であるイスラーム過激派(ここでは「イスラーム国」)と、「抵抗の枢軸」陣営が互いにいがみ合い消耗していく状況は、まさに笑ってみていればいいだけだ。こういう発想は、「燃えるがままにせよ」の論理として、十年以上前からアメリカ(とイスラエル)の為政者たちが大切に育て、現場での環境醸成に努めてきたものだ。

 要するに、今般の扇動演説は、「イスラーム国」が表面的な言葉とは裏腹に、組織としてはユダヤ(≠イスラエル)やアメリカを決して攻撃しないと誓約し、ユダヤ(≠イスラエル)とアメリカの敵である「抵抗の枢軸」陣営を一生懸命攻撃しますとの決意表明だと思っていい。状況を理解する知性を持ち合わせていない「イスラーム国」のファンや共鳴者の一部が地上のどこかで本邦やその権益を含むユダヤ(≠イスラエル)と十字軍権益に対する通り魔的襲撃を起こす可能性があるのでこちらについては備えを怠ってはならないが、現在の紛争の帰趨を左右するような強烈な政治的影響のある攻撃はおそらくないだろう。「イスラーム国」の観察を続けていると、同派が無知・貧困・差別・イスラモフォビア・格差などなどの表面的な理由よりもはるかに陰湿な理由によってこの世に存在し、それが故に同派を利用したり温存したりする当事者も後を絶たないという現実を思い知らされるわけだ。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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