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「イスラーム国 シナイ州」はイスラエルと戦うふりをする

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 中東の政治・軍事情勢に鑑みると、イスラエルの力は他を圧倒している。過去数年はその傾向が一層強まり、パレスチナ人への大規模な追放が起きようとしていても、日常的にシリアを爆撃しついには民間空港を使用不能にしても、今やイスラエルに反撃したり同国をとがめだてしたりする主体は存在しない。2021年5月のパレスチナにおける衝突で見られたように、イスラエルと干戈を交えることは、国際的に全く同情されることもなく一方的に正当性を否定され孤立無援で戦う羽目になるため、反イスラエル抵抗運動諸派ですら武力での対決には相当の覚悟がいる。このような状況は、イスラーム過激派についても同様である。彼らは宗教的な動機により犠牲を厭わずユダヤ(=イスラエル)を攻撃しようとしていると思われるかもしれないが、実際にはイスラーム過激派の勢力はイスラエルと交戦可能な場所にはめったに現れない。攻撃扇動や脅迫、ボイコットの呼びかけに至るまで、イスラーム過激派の広報でイスラエル権益がやり玉に上げられることもまずない。

 その結果、かつてはアル=カーイダがイスラエルと交戦するヒズブッラー、ハマース、パレスチナ・イスラーム聖戦(PIJ)のような諸派に対し、嫉妬心に満ちた非難や恨み言を連ね、現在は「イスラーム国」がパレスチナの問題(=ユダヤとの戦い)はイスラーム共同体で発生している他の紛争から特別扱いするべきものではないと主張するのがイスラーム過激派のイスラエルに対する活動となっている。落ち着いて考えれば、ユダヤ教の宗教施設やイスラエル権益などは世界中いたるところにあり、アル=カーイダや「イスラーム国」が本当にアメリカやヨーロッパ諸国でイスラエル(ユダヤ)の権益を攻撃する意志や能力があるのなら、そのような攻撃を犠牲を顧みずにやるべきことと考えているのなら、共鳴者や模倣者によるものも含め、対イスラエル(ユダヤ)攻撃はもっと頻繁に発生してもおかしくはない。現実にはそうはなっていないので、イスラーム過激派も攻撃によって得られる社会的反響、敵方の反撃など、現世的な損得勘定に基づいてイスラエル(ユダヤ)を積極的に攻撃しないと考えていいだろう。

 しかし、現世的な実力差に恐れをなして行動に出ることができないなどとは、イスラーム過激派にとって決して口にできないことである。となると、イスラーム過激派ができることは、そうした怯懦を糊塗するために「イスラエルと戦っているふり」をすることだ。2022年3月末にイスラエルで発生した襲撃事件に「イスラーム国 パレスチナ」名義で戦果発表が出回った。これについては、欧米諸国などで「イスラーム国」の作戦と称する襲撃事件が発生した際の戦果発表が発信されるメカニズムを理解しておけば、実は襲撃事件の少なくとも一部は、「イスラーム国」にとって組織の置かれた状況や組織の経営を全く慮らない者たちによる迷惑行為のように見える。世界各地で発生した「イスラーム国」の作戦ということになっている暴力行為の多くが、実は「イスラーム国」とは事前のつながりが全くないものだったということについては、当の「イスラーム国」も認めるところである

 そんな中、「イスラーム国 シナイ州」がなんだか妙な行動をとりだした。とはいっても、同派がイスラエルを攻撃したとか、それにつながる動きをしているというわけではない。2022年5月13日を境に、「イスラーム国 シナイ州」名義で発信される戦果発表やニュース速報において、攻撃対象に「モサドの民兵」なる面妖な表現が現れるようになったのだ。「イスラーム国 シナイ州」は、これまでもエジプト・ヨルダン・イスラエルを結ぶ天然ガスのパイプラインを爆破するなどして「イスラエルと戦うふり」をすることがあったが、主な攻撃対象はエジプト軍やその配下として編成されたと思しき地元の自警団的民兵組織だった。シナイ半島で活動するエジプトの軍・警察・治安機関・民兵の編成が2022年5月を境に急に「モサドの民兵」へと変わったとはちょっと考えにくいので、「イスラーム国 シナイ州」の側が、従来通りの攻撃対象に与える広報上の蔑称を変更したのだろう。海外で暗躍するイスラエルの諜報・謀略機関としての「モサド」の印象に鑑みれば、シナイ半島での攻撃対象への蔑称を「エジプト政府に与する民兵」から「モサドの民兵」に変更した方が、いかにも「イスラエルと戦っている」風で何かの面目が立つのだろう。攻撃対象を「モサド」と呼ぶことは、2004年~2005年頃のイラクの武装勢力が、アメリカなどの傭兵企業の要員を殺傷した際の戦果発表でも流行していた。ただ、シナイ半島でもイラクでも、「モサド」と呼ばれた攻撃対象の多くは、それをいくらたたいてもイスラエルは何の痛痒も感じない存在だ。「イスラーム国 シナイ州」が「モサドの民兵」なる表現を弄することは、あくまで「イスラエルと戦うふり」をするための行為に過ぎないので、こうした些細な言葉遊びにおいてすら「イスラーム国」、ひいてはイスラーム過激派が世界に影響を与える力を喪失したことが示されているのである。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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