「イスラーム国」はイスラエルと戦うふりをし続ける
2023年1月27日にエルサレム郊外でユダヤ教の礼拝施設が襲撃され、10人が死亡する事件が発生した。この事件について、みんなが待ってる(?)「犯行声明」はどこからも発表されず、パレスチナの抵抗運動諸派も、イラクで活動する「親イラン」民兵も、「襲撃を祝福する」声明を発表するにとどまった。諸派が襲撃を自らが企画・実行した作戦だと言わないのは、そうすることによる敵方(=イスラエル、アメリカ)からの反撃により壊滅的な損害を被りかねないという「大人の事情」に基づく打算や計算の産物であろう。また、破壊と殺戮の規模という観点からは、この襲撃によりイスラエルがパレスチナの人民や抵抗運動諸派はもちろん、敵対する地域諸国や非国家武装主体を一方的にぶちのめしているという昨今の紛争の構図に何か影響が出るわけでもない。
そうした状況に対し、「イスラーム国」が機関誌の最新号に「ユダヤ人を殺せ」という由緒正しいハディース(使徒ムハンマドの言行録)の一節に基づく刺激的なタイトルで、扇動論説を掲載した。いわく、「ユダヤ人とムスリムとの戦争は宗教戦争であり、ユダヤ人と(外交)関係を樹立したり対話を試みたりするアラブの為政者もユダヤ人によるイスラームへの攻撃の一部に過ぎない。それ故、「イスラーム国」は、カタルであれ、UAEであれ、アラブであれ、非アラブであれユダヤ人の同盟者との戦いを呼びかけてきた。チャドの背教政府はユダヤ人との(外交)関係樹立を宣言し、愛国主義者がそれを口先だけで攻撃しているが、「イスラーム国」だけが以前から、そして今後もユダヤと戦うものである。」とのことだ。その上で、問題の論説はパレスチナの若人に対し、ユダヤ人との戦争は宗教戦争であり、あらゆる愛国主義的スローガンからほど遠いものであると注意喚起した。さらに、全ての場所のムスリムに対し、「ユダヤ人と戦い、ヨーロッパやその他の諸国に拡散しているユダヤ人の街区や礼拝施設の内部を攻撃対象とすること」、「あらゆる方法でユダヤ人と戦い、ユダヤ人との戦争の口火を切る者となれ」と扇動した。
攻撃対象となりうる人々や施設は、それこそ本邦を含む世界中どこにでもあるので、この種の扇動を看過するわけにはいかない。最近報道の量が減っているので「イスラーム国」をはじめとするイスラーム過激派の活動への社会的関心は低下しているが、だからと言ってイスラーム過激派がいなくなったわけではない。また、イスラーム過激派諸派が存在を誇示したり、イスラーム過激派の共鳴者・模倣者たちが突発的な殺人事件を起こしたりすることに何かの対策が必要な状況も変わっていない。
ただし、注意しなくてはならないのは、「イスラーム国」はあくまで組織とは無関係のムスリムが同派の言う「ユダヤ人」を攻撃するよう扇動しているだけだという点だ。「イスラーム国」は、一定の条件が整った場合にイスラエルの領域内で発生した襲撃事件を自派の作戦だと主張したこともある。しかし、このような行動は、今般の論説でユダヤ人との戦いを運命的かつ非妥協的な宗教戦争と位置付けている割に「しょぼい」と言わざるを得ない。何故なら、「イスラーム国」の言う通り、ユダヤ人やその権益は世界中にいくらでもあり、同派が本当に成功を収めているのなら「組織として企画・実行した作戦として」これらを攻撃することなどいつだって可能なはずだからだ。それをしない(できない)で一般のムスリムに攻撃を呼びかけるということは、「自派は何もしない・できない」と言っているようなものだ。こうした状態は、2009年頃からアル=カーイダが(組織の構成員でもネットワークの一員でもない)一般のムスリムに決起を呼びかけるようになった状態と既視感がある。
繰り返しになるが、「イスラーム国」や他のイスラーム過激派の攻撃も、ムスリムが起こす様々な抗議運動も、成功の可能性、世論の反響、そして敵方からの反撃の強度などの現世的事情を考慮した上で、いつ、だれに、どんな風に仕掛けるかを判断して行動を起こすか否かを決めるものである。敗北であれ自爆攻撃(=殉教作戦)の結果であれ、現世で死ぬことは来世で報われる殉教であると信じて戦いに身を捧げるのは、「イスラーム国」の組織の経営にとって必要がない最末端の構成員にすぎない。「来世を計算に入れて集合行為に身を投じる者がいる」という現象は、学術的に非常に重要な研究課題なのだが、その際はどのような運動にも「組織や運動を経営する者たち」と「最末端の構成員・参加者」がいるという視点から考えた方がよさそうだ。