かつての友は今日の敵――イランはなぜ中東でも特別イスラエルと敵対するか 基礎知識5選
イスラエルは10月26日、イランの軍事拠点に精密爆撃を行った。レバノン地上侵攻の発生した翌10月2日、イランが約200発のミサイルをイスラエルに発射したことへの報復とみられている。
イスラエルとイランの対立は、ガザやレバノンなど中東の多くの紛争に繋がっている。
なぜ中東でもとりわけイランはイスラエルを敵視し、なぜイスラエルはイランを危険視するか。その因縁を5項目に絞ってまとめてみよう。
(1)イスラエルと友好的だったイラン
イスラエルが独立を宣言した1948年、周辺アラブ諸国はこれに反対して軍事介入した。第一次中東戦争だ。
この時イランはやはりイスラエル独立に反対したものの、戦後いち早くイスラエルと国交を樹立するなど、アラブ諸国と一線を画した。
この温度差は特に1950年代半ばから鮮明になった。
当時イランでは皇帝レザー・シャー・パフラヴィーが米英の支援のもと、経済、軍事の近代化を進めていた。
権力集中を目指したシャーは反対派を容赦なく取り締まったが、そのなかにはソ連の影響を受けた社会主義者だけでなく、皇帝崇拝を拒む聖職者(イスラーム法学者)も含まれていた。
強権的で、同時に宗教色の薄いシャーのもと、イランはやはり米英から支援されるユダヤ人国家イスラエルとも国交を維持した。
アメリカを挟んだ友好を象徴したのが石油危機だった。
1973年に第四次中東戦争が発生すると、アラブ諸国は米英など先進各国(日本を含む)に対して石油の禁輸措置を発動し、イスラエル支援を止めるようプレッシャーをかけた。しかしこの時イランは先進国に石油を輸出し続け、アラブ諸国に協力しなかった。
(2)転機はイスラーム革命
こうした関係が崩れたきっかけは、1979年にイランで発生したイスラーム革命だった。
皇帝主導の近代化計画(白色革命)の結果、農地の一部が貧困層に配分されたりしたが、多くの国民は豊富な石油資源の収入の恩恵と無縁だった。油田権益のほとんどを米英企業が握っていたからだ。
生活苦は1973年の石油危機でさらに悪化した。原油価格高騰にともない石油産業に海外から巨額の資金が流入した結果、インフレが加速したのだ。
その結果、シャーに対する不満・批判だけでなく、シャーに連なる米英への反感も増幅した。
その発火点は、1978年1月に中部コムで発生したデモだった。神学生や商人によるデモに治安部隊が発砲したことで、抗議活動はむしろ全土に飛び火したのだ。
事態の悪化を受けてシャーは翌1979年1月、アメリカに亡命し、帝政は崩れ去った。
シャーと入れ違いに、弾圧を逃れて国外に亡命していたイスラーム法学者ルーホッラー・ホメイニが帰国し、その指導のもとでイスラームの教義と共和制を融合した新体制が樹立された。
このイスラーム革命は世俗的な皇帝支配への反動だったが、同時にシャーを支援していた米英と断絶する転機でもあった。
革命支持者が1979年10月、テヘランにあった米大使館を占拠した事件は両国関係を決定的に悪化させ、アメリカは国交を断絶してイランを「テロ支援国家」に指定した。
これと並行してイランは、シャー時代とは対照的に、パレスチナ支持を鮮明に打ち出した。それはイスラエルとの決裂を意味したのである。
(3)第一ラウンドはレバノン内戦
アメリカの同盟国イスラエルがイランと最初に対決した舞台はレバノンだった。そのきっかけは1975年に発生したレバノン内戦だった。
当時レバノンでは宗教対立が激化していたが、混乱の最中の1982年、イスラエル軍が侵攻を開始した(ガリラヤの平和作戦)。その目的はレバノンに拠点を構えていたパレスチナ人の組織、パレスチナ解放機構(PLO)の壊滅にあった。
イスラエルの戦車部隊は首都ベイルートにあったPLO本部を包囲したが、それでも周辺アラブ諸国は全く動かなかった。アラブ諸国はパレスチナの道づれになるつもりはなかったのだ。
そのためイスラエルの進撃を最終的に止めたのは、停戦を求める国際世論に押されたアメリカだった。
アメリカの仲介によりPLOはチュニスに拠点を移したが、イスラエル軍はレバノン南部に駐留し続けた。
そのイスラエル軍を攻撃し始めたのがイスラーム組織ヒズボラだった。
ヒズボラはレバノン南部のシーア派住民を中心に結成され、当初からシーア派で共通するイランの軍事援助を受けていた。
しかし、イスラエル軍との戦力差は歴然としていたため、当時のヒズボラは自爆攻撃を多用して対抗した。これはイスラーム世界における最初期の自爆攻撃だったといわれる。
自爆攻撃に手を焼いたイスラエル軍は1985年、レバノン南部から撤退した。
それ以来、ヒズボラはレバノン南部を拠点にイスラエルと対峙してきた。レバノン内戦はイランとイスラエルの第一ラウンドであると同時に、現在の危機の入り口だったといえる。
(4)イスラーム世界のなかの勢力図
イランが中東でもとりわけイスラエルと敵対的である一つの背景は、アラブ諸国が1970年代からイスラエルと融和的になったことにある。
アラブの大国エジプトは4度の中東戦争を主導したものの、1979年にイスラエルと単独で和平条約を結んだ。他のアラブ諸国はエジプトの「一抜け」を批判したが、レバノンでPLOが陥落寸前になっても動かなかった。
そこには軍事大国化したイスラエルへの警戒だけでなく、1980年代から先進国が重要な石油輸出先になったこともあった。その意味でアラブ諸国の融和的な態度は高度に政治的な判断ともいえる。
ただし、それは多くのムスリムから共感を得にくく、むしろ「裏切り者」とみなされることさえあった。
だからこそ、ほとんどのアラブ諸国は1993年のオスロ合意を支持した。
オスロ合意はイスラエルとパレスチナの一時的妥協によって結ばれ、国連決議に沿った二国家建設が基本合意された。これは周辺国にとって「イスラエルかパレスチナか」の二項対立からの解放を意味した。
これに対してイランは、表向きオスロ合意を支持したものの、この頃からガザのハマスに訓練、兵器、資金などの軍事援助を増やし始めた。その支援額は年間1億ドルともいわれる。
イスラエルでもそうだが、パレスチナ人の間でも二国家建設案には意見が別れている。
PLOを中核に発足した穏健派のパレスチナ自治政府が二国家建設案を支持するのに対して、ハマスはパレスチナ全土の解放(=イスラエル打倒)を叫ぶ。
そのハマスへの支援は、イスラエルやアメリカと融和的なアラブ諸国を突きあげる効果もある。いわば「イスラームの本流はイラン」というイメージ化だ。
イスラエルに対するイランの敵意の影には、アラブ諸国に対するライバル意識もうかがえるのである。
(5)核開発を促したアメリカの圧力
イランとイスラエルの対立で懸念を招いている一つのポイントは、イランの核武装だ。
イスラエルはイランの核関連施設に対する攻撃を計画しているともいわれる。
ただし、イランの核開発は急に始まったものではなく、その起源はシャーの時代にさかのぼり、イスラーム革命後も細々と継続していた。
結果的にそれを一気に加速させたのは対テロ戦争だった。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受け、ジョージ・ブッシュ・ジュニア大統領に「悪の枢軸」と名指しされたイランでは危機感が高まった。イランは国際テロ組織アルカイダとほとんど関係なかったが、アメリカはいわばどさくさに紛れてイランを標的にしたといえる。
イランの危機感は2003年、アメリカがイラク侵攻を強行したことでピークに達した。
イラクはイランとともに「悪の枢軸」と名指しされていた。アメリカは証拠を示さないまま、イラクが大量破壊兵器を保有していて危険と断定し、多くの国の反対・批判を押し切って侵攻に踏み切ったのである。
イラク侵攻はアメリカと対立する国にとって「核兵器をもたないと危険」という教訓になったといえる。
実際、イランはその前後からウラン濃縮や弾道ミサイル開発・配備を急速に進め、アメリカのさらなる敵意を招く悪循環に陥った。
この緊張が一時的に緩和したのが2015年の核合意だった。バラク・オバマ大統領は国交のないイランを含め、英仏独中ロと合同で、イランの核武装禁止と核の平和利用を認める合意に至ったのだ。
ところが、この合意はすぐに無に帰した。2016年大統領選挙で勝利したドナルド・トランプは根拠を示さないまま「イラン核武装疑惑」を主張し、核合意を廃棄した上で経済封鎖を強化したからだ。それにともないイランは再び態度を硬化させ、核開発を再開したとみられている。
今年7月の段階でアメリカ政府は、イランのブレークアウト・タイム(ウランを核兵器に使用できるレベルにまで濃縮するのに必要な時間)が1~2週間にまで短縮されたという観測を発表し、その核能力の向上に警戒を示した。
しかし、イスラエルやアメリカが警戒するイランの核能力は、少なくとも部分的には、アメリカの圧力が生み出したものでもある。だとすれば、中東の緊張をある程度ハンドリングできるのはアメリカしかない。
アメリカは今、超大国としての真価が問われているといえるだろう。