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アサド政権崩壊でシリア難民に帰還を促す各国政府――早急な帰還促進に人権団体などが反対する理由

六辻彰二国際政治学者
トルコとの国境付近で入国手続きを待つシリア難民(2024.12.11)(写真:ロイター/アフロ)
  • アサド政権崩壊を受けてシリア難民の帰還が始まり、国内のシリア難民に帰還を促す国も増えている。
  • しかし、国際人権団体などはアサド政権が崩壊しても情勢は安定していないとして、早急に帰国を促すことに反対している。
  • さらに、600万人以上ともいわれるシリア難民が短期間のうちに戻れば、不安定な情勢をさらに不安定化させるという警告もある。

「シリア難民は帰って当然」

 アサド政権が崩壊した後、シリアに発足した暫定政府は海外に逃れていた国民に帰還を呼びかけ、これを受けて自発的に帰国する難民も出ている。

 これに呼応して、いくつかの国はすでに国内のシリア難民に帰還を促し始めている。

 例えばシリアの隣国トルコでは、アサド政権の崩壊を受けて外務大臣が「安全かつ自発的な帰還を支援する」と発言するなど、「シリアに帰って当然」という空気が広がっている

 トルコは300万人以上のシリア難民を受け入れていて、その規模は世界一だ。

 しかしこの数年、経済停滞や大地震といった社会不安が広がるなか、難民に対する排斥運動も広がり、トルコ政府は以前からシリア難民に帰還を促していた。

 同様の動きはヨーロッパでもみられる。

 ダマスカスが制圧されてアサド政権が崩壊した12月9日、オーストリア政府は新規のシリア難民受け入れを中止し、すでに国内にいるシリア難民について送還する方針を打ち出した

「シリアは安全になった」のか?

 オーストリアのシリア難民は6万人以上にのぼる。この国では今年9月の総選挙で移民・難民に厳しい自由党が勝利した。

 オーストリアに限らずヨーロッパでは極右の台頭が目立ち、その勢いを警戒するイギリス、フランス、ドイツ、ベルギーなどの各国政府も、新規のシリア難民の受け入れを中止している。

 世界各国で保護されるシリア難民は現在630万人にもおよび、国別で世界最多だ。そのほとんどは2011年に始まった内戦で国外に逃れた人たちだ。

 だから首都制圧と暫定政府発足を受けて、各国政府が「シリアは安全になったのだから難民を保護する必要はない」と示唆するのも不思議ではない。

 しかし、スピーディな帰還促進には疑問・懸念も寄せられている。例えば国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は「シリアが安全になったと決めつけて難民を帰還させるのはリスクが高い」と警告する。

シリアでは新たな避難民も出ている

 あらかじめ断っておけば、難民を受け入れるかどうかの決定権は各国政府に委ねられている。また、1951年の難民条約では「難民出身国の状況が変われば」受け入れ中止も認められている。

 しかし、早急な帰還促進に懸念を表明しているのはHRWだけではない。

 例えば国連難民高等弁務官(UNHCR)も「状況が変わったといえるのは根本的、耐久的な変化でなければならない」「状況はいまも急激に変化していて、多くの疑問が残る」と、この段階でシリア難民に帰還を促す各国政府に慎重な判断を求めている

 その根拠としてUNHCRがあげているのは、

(1)アレッポ、ハマ、ホムスといった主要都市ではアサド政権崩壊にともなう一連の戦闘で約100万人が新たな避難民になった。

(2)アサド政権崩壊の前後からシリアではイスラエル軍が空爆を続けていて、これも新たな避難民を生んでいる。

(3)それでもアサド政権崩壊後に数千人が隣国レバノンからシリアに帰還したとみられているが、ほぼ同時期にレバノンに逃れてきた新たな難民もいる。

(4)ほとんどの難民は情勢を注視していて、すぐに帰ると判断できない状態にある。

シリア情勢を悪化させる懸念

 HRWやUNHCRの警告は主に人道的な観点からのものだが、「シリア難民に早急な帰還を促せば、かえって情勢を悪化させる」という政治や安全保障の観点からの指摘もある。

 アメリカ議会系のシンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS)のウィル・トッドマン上席研究員ヨーロッパ各国がシリア難民に帰還を促していることを「大きな誤り」と批判する

 トッドマンの論点は主に以下の通り。

(1)シリアでは国内避難民がまだ数多くいるだけでなく、インフラが破壊され、経済はほぼ破たんしている。

(2)シリア暫定政府の中核を占めるタハリール・アル・シャーム機構(HTS)はグローバル・ジハードを掲げたこともあるアルカイダ分派で、今後どんな政治体制ができるか不明。

(3)アサド政権を支援してきたロシアやイランの影響力が減退した一方、先進各国やアラブ諸国の関与は限定的なままで、秩序の維持にも不確実さが残る。

(4)そんな状況で数多くの難民が国外から戻れば摩擦が大きくなり、シリア情勢はさらに不安定化しかねない。

戻るも残るもイバラの道

 多くの国では近年、難民が政治問題になりやすい。しかし、そのなかでもシリア難民は人数の多さもあって、とりわけ「やっかい者」扱いされやすかった

 特にヨーロッパでは2014年頃から地中海を超えてたどり着くシリア難民が急増し、その受け入れ割当をめぐる対立がイギリスのEU離脱の引き金になり、極右台頭を促す一因にもなった。

 その意味で各国政府がシリア難民に早期帰還を促しているのは、あえて言えばやっかい払いに近い。

 その意味でシリア難民の多くは、情勢不安定な母国に戻る不安と、「早く帰れ」という受け入れ国のプレッシャーとの間で、難しい選択を迫られているといえる。

 この状況は今後ますます深刻になると見込まれる。

 ヨーロッパ各国の早急な判断を批判するトッドマン自身が認めるように、アメリカもドナルド・トランプ次期大統領のもと、今後シリアにほとんどかかわらなくなると見込まれる。

 アメリカにも約8800人のシリア難民がいるが、次期トランプ政権のもとで彼らが送還の対象になっても不思議ではない。

 たとえ実際には情勢がいまだに不安定でも、国内事情を優先させたい受け入れ国政府が、正当性を内外にアピールしたいシリア暫定政府の呼びかけに便乗して「シリアは安全になった」と示唆すればするほど、シリア難民の置かれた立場はより難しくなるといえるだろう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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