【わかりやすく解説】パレスチナめぐる歴史とは――英の三枚舌外交、4度の中東戦争、オスロ合意
イスラーム組織ハマスの攻撃に端を発したイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区への激しい攻撃は、 パレスチナの土地問題にルーツがある。今後を展望するために、パレスチナの歴史を簡単に振り返ってみよう。
「約束の地」を追われたユダヤ人
イスラエルやガザを含む一帯、パレスチナにおける対立の起源は約2000年前にさかのぼる。
旧約聖書は神がユダヤ人にこの地を与えたと伝えている。しかし、「約束の地」に王国を築いていたユダヤ人のほとんどは紀元1世紀にこの地を追われた。ローマ帝国に征服されたからだ。
その後のユダヤ人は世界中に離散しただけでなく、差別・迫害を受けやすかった。
カトリック教会が絶対の権威だった中世ヨーロッパでは「ローマの役人にキリストを売った裏切り者の子孫」として憎悪の対象になった。ロシアや東ヨーロッパでもユダヤ人狩り(ポグロム)はしばしば発生した。
居住地をいつ追われるか分からないユダヤ人には、場所を選ばない金融業などを営み、富を蓄える者も多かったが、これも「守銭奴」イメージで憎悪を招いた。
こうした差別は基本的人権の観念が生まれた18世紀以降も収まらなかったため、ユダヤ人の間には19世紀末頃から居住地での共生を諦め、ユダヤ国家再建を目指す機運が高まった。
ユダヤ教の総本山ソロモン神殿があったエルサレムの シオンの丘への帰還を目指す運動はシオニズムと呼ばれる。エルサレムはユダヤ教の中心地だが、キリスト教やイスラームにとっても聖地であり、このことが後に争いをエスカレートさせる火種の一つになる。
転機になった第一次世界大戦
シオニズムの高まりにつれ、ユダヤ人の一部はパレスチナを目指した。ユダヤ人は当初、この地に暮らすアラブ人から土地を買って移住し、そのなかから広大な農園の経営者も誕生した。
しかし、やがて豊かなユダヤ人と貧しいアラブ人の間に反感と対立が広がった。これを加速させたのが第一次世界大戦(1914-1918年)だった。
イギリスは1915年、ドイツに協力するオスマン帝国をつき崩す目的で、オスマン帝国に支配されるアラブ人に接近した。イギリスはアラブ人に戦争協力と引き換えに国家建設を約束したのだ(フセイン・マクマホン協定)。アラブ国家の範囲にはパレスチナも含まれた。
ところが、イギリスは翌1916年、大戦後にオスマン帝国の領土を分配することをフランスと約束した(サイクス・ピコ協定)。そこでパレスチナはイギリスのものとされた。
この時点で矛盾があったが、イギリスはさらに1917年、ユダヤ財閥ロスチャイルド家にユダヤ人の「民族的郷土」をパレスチナに建設すると約束した(バルフォア宣言)。戦費不足に悩んだイギリスはユダヤ財閥に協力を求めたのだ。
この帝国主義的な「三枚舌外交」を展開したイギリスは結局、フランスとの約束を優先させた。
これに抗議するアラブ人をイギリスは弾圧したが、強い抵抗に直面してイラクとヨルダンに形ばかりの王国建国を認めた。ただし、アジアとヨーロッパを結ぶ交易の拠点パレスチナは委任統治領としてイギリスの直接支配を受けた。
こうしたなかでもバルフォア宣言に基づいてユダヤ人が相次いでパレスチナに移住したため、アラブ人の反感と敵意はさらに強まった。
第二次世界大戦の衝撃のなかで
この対立を決定的にしたのが第二次世界大戦(1939-1945年)だった。ナチスの迫害を逃れたユダヤ人のパレスチナ流入が急増したのだ。
パレスチナの全人口に占めるユダヤ人の割合は第一次世界大戦後の1922年には約11%だったが、1944年には約30%にものぼった。
ナチスを敵視するユダヤ人は米英仏など連合軍に、戦費だけでなく独自部隊を編成して協力した。これに対して、ユダヤ人と対立するアラブ人の多くはドイツに協力した。
この立場の違いが戦後に大きく影響した。
戦後、パレスチナの争いに手を焼いたイギリスは、発足したばかりの国際連合にこの問題を付託した。その結果、1947年の国連総会でパレスチナ分割が決議され、全領土の57%をユダヤ人に割り当てることが賛成多数で可決された。
この偏った配分はホロコーストの記憶によるユダヤ人への同情的な機運に加えて、大戦中の連合国への協力によって実現した。
さらに、この国連決議はアメリカ主導で採択されたが、当時のハリー・トルーマン大統領は翌1948年に大統領選挙を控えていた。トルーマンにはアメリカ社会で大きな影響力を持つユダヤ人にアピールする必要があった。
こうして採択された国連決議を受け、ユダヤ人は1948年にイスラエル建国を宣言した。2000年の悲願が実現した瞬間だった。
しかし、それは同時に、国連決議に反対するアラブ諸国との衝突の始まりでもあった。
中東の火薬庫となったパレスチナ
周辺のアラブ6カ国は1948年、イスラエルに侵攻した(第一次中東戦争)。これを皮切りに、イスラエルとアラブ諸国の間の中東戦争はその後1956年、1967年、1973年と4度にわたった。
独立当初のイスラエルはいわば弱小国だったが、度重なる戦争を戦い抜くなかで徐々に軍事大国化した。
そこにはアメリカなど先進国による支援だけでなく、民族の悲願である国家を防衛しようとする強い結束があった。イスラエルは現在でも女性を含む国民皆兵制が機能する数少ない国の一つである。
ただし、イスラエルの軍事大国化にともない、「独立を守る弱小国の戦い」は「パレスチナを支配する強国の軍事作戦」に変貌した。
とりわけ1967年の第三次中東戦争でイスラエルは、ヨルダン川西岸とガザを支配するに至った。どちらも国連決議でパレスチナ人に割り当てられた土地である。
これと入れ違いにパレスチナ人は土地を失い、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によると、現在までに約590万人 が難民になった。
そのうえ、イスラエルは占領地にユダヤ人を移住させ、実効支配してきた。これは国際法で禁じられる植民地化にあたると指摘される。
オスロ合意後のパレスチナ
イスラエルの占領政策に、アメリカを除くほとんどの国は1970年代末までに反対を表明するようになった。さらに1980年代にはパレスチナ人の抗議・抵抗が強まって占領のコストが増えた。
その結果、イスラエルでも戦後世代を中心に「安全が確保されるならパレスチナ独立を認めてよい」という意見が増えた。
この背景のもとで1993年、アメリカの仲介のもと、停戦と引き換えに国連決議に沿った二国家建設に向けたアラファト議長率いるパレスチナ解放機構(PLO)との 協議開始が合意された(オスロ合意)。これを受けてパレスチナ自治政府が発足し、アラファトが初代議長に就任した。
PLOは1960年代からイスラエルと軍事衝突を繰り返していたが、「パレスチナ全域での独立」が不可能と判断し、「国連決議に沿った独立」に舵を切ったのだ。
しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラームというそれぞれ3つの宗教の聖地 であるエルサレムの帰属や、占領地に定住したユダヤ人入植者の扱いなどをめぐり、その後の交渉は難航した。
これと並行して、占領に対する抗議から生まれたイスラーム組織ハマスなど、あくまでパレスチナ全域での独立を目指す勢力は軍事活動を止めなかった。
一方のイスラエルでも、オスロ合意への反動は徐々に大きくなった。オスロ合意を結んだイツハク・ラビン首相が1995年、ユダヤ教保守派に暗殺されたことは、その象徴だった。
ユダヤ教保守派は「約束の地」全ての領有を主張する。その台頭を受け、イスラエルは2005年にガザを返還したものの、パレスチナ自治政府が拠点を置く東エルサレムを含むヨルダン川西岸を支配し続けている。
こうしてその後も衝突が止むことはなく、オスロ合意はほぼ死文となった。
10月7日に始まったイスラエルとハマスの戦闘がどのように収束するかは予断を許さない。しかし、たとえ停戦合意が成立したとしても、ヨルダン川西岸の実効支配を既成事実化するイスラエルの占領政策 が続く限り問題の根本的解決に向けた道筋は見えず、軍事対立は収まらないとみられるのである。
【この記事は、Yahoo!ニュース エキスパート オーサー編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】