「極刑に値する罪ですか?」(張本勲氏)について
元プロ野球選手で野球評論家の張本勲氏が、日曜日朝のテレビ情報番組で、バドミントン男子のM氏(21)と、元五輪代表のT氏(26)の二人が違法カジノ店で賭博をしていた問題についてコメントし、M氏については「21歳、まだ子どもですよ。“極刑”はやめてあげるべき」と寛大な処置を求めていましたが、同じ日に緊急理事会を開いた日本バドミントン協会は、M氏に対して代表選手指定の解除と無期限の競技会出場停止、T氏に対しては無期限登録抹消の処分という、たいへん厳しい処分を科すことを全員一致で決定しました。
犯罪とそれに対する制裁は均衡していることが必要で、犯された犯罪に対して不必要に制裁が重い場合も、逆に軽い場合も、ともに社会的に正しいこととは思われません。妥当な制裁の程度はどれくらいかということは難しい問題ですが、その前提としては、犯した犯罪の何が問題なのかという議論が大切で、それを抜きに感情的に”叩く”ことは避けるべきです。この点、賭博に関してはどうも「賭博の何が悪いのか」という点があいまいなまま、感情的な議論が先行しているのではないかといった気がします。
確かに、刑法185条には賭博罪という条文があり、これは刑法犯ですが、その法定刑は「50万円以下の罰金又は科料」という、無数にある犯罪の中でもたいへん軽い部類に属します(ただし、常習になれば「3年以下の懲役」)。そして、賭博を処罰する根拠は、相変わらず賭博(ギャンブル)が〈汗水たらして真面目に働き、社会に貢献するという勤労の美風(道徳)〉を損なうからというものなのです。しかし、いわゆる公営ギャンブルが合法的に運営され、パチンコ、宝くじなどが堂々と存在する社会で、ギャンブルをこのような観点から罪悪視するというその見方が妥当かどうかは大いに疑問だと思われます。道徳も社会秩序を維持するうえでは大切なルールですが、具体的な被害のない道徳違反をも犯罪として処罰すべきかといえば、それは過剰な規制ではないかと思います。今回のたいへん厳しい処分も、違法なギャンブルをしたからというのでは、それが処分の主たる根拠であってはならないと思います。この意味では、たとえば「スポーツとしての認識やスポーツマンシップ精神のかけらもない」(尾木直樹氏)といった非難もどうかと思います。
他方で、賭博罪は、件数は減少しているものの、依然として暴力団の有力な資金源であることは間違いありません。今回の問題に関しても、問題の違法カジノ店の経営に暴力団幹部が関わっていたとの報道がありますが、違法カジノ店からの収益の一部が〈みかじめ料〉(”用心棒代”や暴力団の縄張りで商売することについての”場所代”など)として暴力団に流れているケースもあり、その額も驚くほど高額だと言われています。反社会的勢力への対策として、社会全体でその資金源を断つということがたいへん重要である以上、これに加担していたという”罪”の大きさは否定できるものではありません。
歴史的に見れば、犯罪に対する社会の態度は、「厳罰」と「寛容」の間を大きく揺れ動いてきました。しかし、一つ言えることは、違法行為に対して社会が寛大な態度を取ることが、その後の社会の発展の重大な契機となるということです。違法行為に対する〈否認〉という強い意志表示を行いながらも、その者を懲罰的に排除するのではなく、事件のプロセスを社会全体がみずからのこととして解明し、事件の影響をともに考え、事件を犯した者の将来の道を、治療的に模索することこそが求められるのではないかと思います。
その意味で、反社会的勢力に結果的に加担していたからといって、張本氏が言うように、それがスポーツ選手にとっていわば”死刑”に相当するような”最高刑”で対処しなければならない必要性があるのか、もう一度考えて欲しいと思います。
なお、付言すれば、先日来プロ野球で問題になっている野球賭博や「円陣声かけ金銭授受」などの問題も同じだと思います。(了)
賭博罪の問題性については、次の拙稿も合わせてお読みいただければ幸いです。