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否定の代償 オーバードーズ問題

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
(写真:イメージマート)

危険なオーバードーズ

若者への大麻の蔓延が深刻だと言われ、取締りに大きなエネルギーが注がれている。

薬物事犯はいわゆる「被害者のない犯罪」であるから、被害届けや告訴など警察が受け身のかたちになって犯罪を認知し、統計に計上するのではない。その検挙人員の数字が直接示すものは、大麻事犯に対する取締り方針の強化だといえる。

しかし次の記事を見れば、そのような取締り方針がはたして妥当なのかということに大きな疑問が生じる。

オーバードーズ(OD)とは、市販薬や処方薬の過剰摂取である。記事の中にある「薬物依存症の治療を受けた10代患者の主な使用薬物の推移」のグラフを見れば、最近は覚醒剤や大麻などの「違法薬物」よりも、市販薬や処方薬の乱用の方がはるかに多く、合法なだけに問題はより深刻になっている。オーバードーズを「伝染病」と呼ぶ専門家もいるくらいである。

さらに危険なものは、2種類以上の薬物を混合して使用する多剤併用であり、副作用や過剰摂取のリスクが高まる。多剤併用には、アルコールや合法なエナジードリンク、あるいはOTC医薬品(ドラッグストアなどで普通に買える医薬品)が含まれる。そして、もっとも重篤な反応は相乗作用であり、併用された薬物が互いを増強するケースである。多剤併用は、意図的に効果を得ようとするものであれ、使用者の無知によるものであれ、増加傾向にある。

オーバードーズはなぜ起きるのか?

このようなオーバードーズが増加している背景は何だろうか。三つの理由が考えられる。

第一は、薬学の進歩によって、医療の場で利用できる薬物の数、種類、効能が飛躍的に進歩したことである。病気を治し、痛みを和らげ、発熱を抑え、その他の医療上の効果を目指して、ヒトは天然の物質と合成物質の両方を使用してきたが、科学の発展に伴って使える物質の種類も増えてきた。現在、医療機関等で保険診療に用いられる医療用医薬品として官報に告示されている品目は約1万5千程度ある(厚労省のサイトより)。

つまり個人が、有益な医療用途を持つさまざまな医薬品を入手し、製造者の意図とは異なる目的で使用する方法を見出したということである。しかも市販薬乱用者は、以前はヘロインやコカイン、覚醒剤などの違法薬物でしか得られなかった精神的、肉体的、感情的経験のほとんどを、合法な薬物から得ているのである。これらの情報はネットで拡散されているし、査読を経た専門論文などもネットで公開されている。

第二に、とくに風邪薬や咳止め薬、鎮痛剤などは、病気や体調不良に伴う不快な感覚などの軽減、つまりそれらからの逃避という点において非常に効果的であるが、しかし健康な者にとっては、その「逃避」は、ダイレクトにリラクセーションと精神的解放以外の何ものでもない。

第三に、もっとも重要だと思われるのは、違法薬物取締りの強化である。上記の乱用される使用薬物の割合の推移を見れば、市販薬の乱用が目立ってきたのは平成28年(2016年)頃からであるが、これと平成25年(2013年)頃から急激な増加傾向を示している大麻事犯の検挙人員の推移を重ねれば、ほぼ逆比例の関係にあることが分かる。つまり、違法薬物乱用の取締りを強化すればするほど、結果的に若者たちを市販薬へと向かわせているのではないか。なぜなら、市販薬の購入も使用も犯罪ではないから、逮捕されることもなければ、もちろん前科がつくこともないし、「安全」な方法だからである。

厳しい薬物規制が薬物問題をいっそう難しくしているのではないか。その疑問について、さらに掘り下げて考えてみたい。

上記YAHOO!ニュースより
上記YAHOO!ニュースより

令和5年『犯罪白書』より(赤線で囲った部分)
令和5年『犯罪白書』より(赤線で囲った部分)

禁止の鉄則とは?

経済学における法則を薬物政策に応用して、「禁止の鉄則」(Iron law of prohibition)ということがよくいわれる。

たとえば高級ワインと低級ワインは、保管や輸送にかかる費用についてはほとんど差がない。したがって遠隔地であればあるほど両者の実質価格の差は縮まり、高級ワインを販売した方が単位あたりの収益は増加する。薬物やアルコールでは、それらが禁止されると、保管場所や輸送費の点から、より濃縮された強力な形態で値段の高いものが闇市場に出回る。実際、1920年代のアメリカ禁酒法の時代には、ビールやワインの消費量が減少し、ウイスキーやブランデーの消費量が増加した。また、ベトナム戦争のときも、アメリカが軍隊内のマリファナを厳しく取り締まったところ、ヘロインが流行したのも、この法則で説明可能である。

さらに今アメリカで深刻なオピオイドの乱用(オピオイド危機)も、この「禁止の鉄則」で説明可能である。

オピオイドの使用は1990年代に痛みに対する正しい治療として始まったが、やがて収益増加を目指す製薬会社の非倫理的な行動によってその使用が拡大した。これが依存症患者を増やして深刻な問題となり、取られた最初の対策は処方を制限して管理を厳格にすることだった。ところが処方オピオイドの供給が減ったことで、すでに依存症になっていた患者がより安価で入手しやすいストリート・ヘロインへと流れ、これがさらにより安価で強力なオピオイドを闇市場に流す弾みとなった。

ところで、現在は国や国際レベルで医薬品が厳しく規制されているが、その基礎には、19世紀末に始まり、20世紀の半ばに麻薬単一条約(1961年)によって確立された禁止法のパラダイム(基本的な枠組み)がある。その結果、2つの好ましくない結果が生じた。

第一は、たとえばモルヒネのような国際的に規制されている医薬品へのアクセスが、多くの必要とする人びとに対して制限されてしまった。世界のモルヒネ供給の9割は、先進国に集中する世界人口のわずか2割弱の人によって消費されている。世界は、多くの人びとを病気や手術の痛みから救うことができないでいる。

第二に、厳しい薬物統制の影響は、世界中の刑事司法制度の中に顕著に表れ、薬物を使用する人びとに対するゼロトレランス(不寛容主義)につながっている。抑圧的な薬物政策は、薬物の管理を犯罪者に担わせ、薬物を使用する人びとを闇に追いやり、より危険にさらしている。

「薬物」とは何かを改めて考える

世界を善と悪に二分することは、人間の本能的な欲求であるが、そこに万人が一致して認める境界があるわけではない。ある物質を薬物と呼び、ある物質を薬物と呼ばないという判断も、しばしば恣意的である。病気の治療にのみ使われるペニシリンのような物質の場合、その判断は簡単だが、精神作用のある薬物(気分、知覚、思考に影響を与える物質)については、その区別は難しい。

さらに気分を変えたり、喜びや快楽を感じるために、自分で精神薬を服用する場合、善悪に関する道徳的問題が不可避である。快楽は、苦痛の対価としてのみ許容されるものなのか。苦痛を伴わない快楽に、人は罪悪感を抱くべきなのか。これらの問いは重要だが、異なる文化が、異なる方法でそれらに答えているため、かなり複雑な問いとなっている。

ある種の薬物を許容するかどうかには、文化を超えた合意はほとんど存在しない。私たちの社会では、アルコール、タバコ、カフェイン以外のすべての薬物の非医療的使用は、社会からマイナスの評価を受けているが、アルコールを厳格に排除する宗教があるように、世界には逆の考えをもつ人びとも多い。

さらに、薬物の善し悪しに関する考え方は、同じ文化の中でも時間とともに変化する。16世紀に新大陸からヨーロッパにタバコが伝わった当初は、その流行を懸念して死刑で対処し、タバコを根絶しようとした国もあったが、100年も経たないうちに、タバコの収益性(税収)を利用しようとする国が現われ、タバコはむしろ奨励されるようになり、ヘビーユーザーを生んだ。アメリカにおけるアルコールも、19世紀の平穏な寛容さから、20世紀初頭の国家的な禁止に至るほど強い反感へと変化したが、世界恐慌によって再び普遍的な受容へと戻された。

歴史をふり返ると、ある薬物が禁止されたり承認されたりしてきたが、その社会的あるいは法的承認または不承認は、そこに含まれる化学成分でもなければ、それが健康に与えるダメージでもない。ある物質を合法と違法に分けるものは、政治的イデオロギーに影響された慣習や偏見に由来するものである。

より良い薬物政策を求めて

今の薬物問題について、いくつかの可能な打開策は考えられる。

第一は、薬物政策において公衆衛生上の視点を優先させることである。薬物に関連する健康被害(特に依存症、過剰摂取による死亡、感染症の伝播など)の削減に改めて焦点を当てることに加え、公衆衛生に真に焦点を当てたアプローチを支える原則を明確にする必要がある。

そして、何よりも薬物政策が保健政策の枠組みに原理的に組込まれるべきである。薬物使用者には、政治的干渉や刑事司法的な強制(処罰)のない、最良の治療モデルが適用されるべきである。患者と医師やサービス提供者との間で望ましい解決策が決定されるべきである。

第二は、薬物の使用と所持を非犯罪化することである。歴史的にも、各国の状況を見ても、薬物使用を犯罪化することは、社会における薬物使用のレベルに影響を与えず、根本的な解決にはなりえない(たとえば死刑廃止国でありながら、薬物捜査の過程で警察が何千人もの死者を出した以前のフィリピンがそうだ)。薬物使用の犯罪化は危険(闇市場での粗悪な薬物の売買など)を助長し、薬物治療を真に必要とする人びとの治療を妨げる。

禁止法の廃止は現在の国際条約では認められていないが、世界がこの方向に動いている兆しはある。近い将来、欧米でいっそうの大麻規制緩和が進むと、国際条約のほころびが表面化してくる可能性が高い。

第三に、そもそも危険な製品や行動、環境を管理することは、国家の重要な責務である。それは、政策や法律のほとんどすべての分野における規範である。

規制は、大気汚染の防止、建築基準や車の安全規制の策定、食品の安全性確保、車の速度制限、自然環境の保護など、われわれの生活すべてに及ぶ。薬物に関していえば、今は闇の犯罪者が違法薬物のサプライチェーンを支配し、管理しているが、(アルコールやタバコのように)生産者と販売者、そして使用者の合法市場へのアクセスを管理することによって、薬物を国が効果的にコントロールし、危険を低減させることができるのである。

結び

まずは、薬物のない世界は実現不可能であるという現実を受け入れ、科学的根拠と綿密な監視に基づいた新たな薬物政策を立案することである。

1998年、国連総会特別総会(UNGASS)は「反薬物の10年」を宣言したが、10年で薬物のない世界が実現するという期待は完全に裏切られた。1990年代以降、薬物使用者の数と入手可能な娯楽用薬物の種類が世界中で劇的に増加した。今でも、大麻は世界でもっとも人気のある違法薬物である。

なお合法化は、薬物の「野放し」を意味するものではない。薬物を禁止すると、解決よりもより多くの問題が発生するから、国による適切で合理的な規制を求めるのである。そして、薬物使用を刑事司法の問題から外して若者が罰せられることがなくなれば、かれらが刑務所で薬物供給を支配管理する犯罪者や売人たちにさらされることもなくなる。

薬物依存については、なぜこれほどイデオロギッシュな議論になるのだろうか。アルコールを好む人の大半がアルコール依存症になるのではないように、薬物を使用する人びとの大半が依存症になるわけではない。かれらは、アルコールと同じように、楽しみとして薬物を使用することに喜びを感じている。しかし、これこそがまさに厳罰主義が否定する喜びの範疇である。しかし、薬物が危険であることは認めても、厳罰主義が薬物問題をコントロールする最善の方法であることは認めない人も多くなっている。またすべての人が薬物が悪いものであると考えているわけではないし、薬物のない世界を望んでいるわけでもない。これが薬物問題の核心である。

薬物そのものは良いものでも悪いものでもなく、むしろ良い使い方も悪い使い方もできる強力な物質である。問題は、薬物の使用を奨励したり、抑制したりすることではなく、人びとが薬物が存在する世界で生きていくことを学び、薬物によって傷つくことがないように社会が支援することなのである。(了)

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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