「虎に翼」で話題の尊属殺人罪違憲判決、その微妙な判決理由
NHKの朝ドラ「虎に翼」も残り2回となりました。今朝は、昭和48年の尊属殺人罪違憲判決言渡しのシーンから始まりました。この判決は、最高裁判事15人のうちで14人までが当時の刑法第200条(尊属殺人罪)の規定が法の下の平等を定める憲法第14条に違反するとした画期的なものでしたが、実は根本では微妙な違いがありました。
親殺しの系譜
親殺しは、古代からもっとも重い犯罪の一つであり、古今東西、どこの国でもこれを徹底的に処してきた。
身分関係がとくに厳しかった江戸時代、「御定書百箇条」(おさだめがきひゃっかじょう)では、通常の殺人は〈下手人(げしゅにん)〉とされ斬首、私欲が加わった殺人は加重されて〈死罪〉となり斬首および死屍の試し斬り、情状によっては引廻しとされたが、親殺しは、これよりさらに一等加重されて〈獄門(ごくもん)〉となり、斬首および晒し首、そして情状によっては引廻しとなった。
獄門は、梟首(きょうしゅ)とも呼ばれ、斬首刑に処せられた者の頭部を公然と晒すとくに重い刑罰である。 これは、食肉鳥である梟(ふくろう)が老いて弱った親鳥を突き殺して食ってしまうところから、世に親殺しほど不孝なものはないとして、正月に家々の門口に梟の首を斬って晒し孝道の重きを天下に知らしめたという古代中国の故事に由来している。人の集団を構成する原理として〈忠と孝〉を政治の根底に据える、現代とはまったく異なった法思想のもとでのことであった。
明治になっても、徳川時代の御定書を参考にした仮刑律(かりけいりつ)(明治元年、1868年)や新律綱領(しんりつこうりょう)(明治3年、1870年)は、尊属殺人を普通殺人に比べて特別に重く処罰していた。これは明治13年(1880年)の旧刑法典でも同じであり、尊属殺人は死刑以外に法定刑のない重罪(旧刑法第362条)であり、かりに父母の方から先に子に対して殺害行為がなされても、子には正当防衛は許されなかった(旧刑法第365条)。
- 旧刑法第362条
子孫其祖父母父母ヲ謀殺故殺シタル者ハ死刑ニ處ス
(子孫その祖父母父母を謀殺故殺したる者は死刑に処す) - なお、謀殺は計画的な殺人であり、故殺は計画的でない殺人である。一般には謀殺の方が重く処罰されるが、尊属に関してはその区別はなかった。
明治40年(1907年)に、今の刑法が制定されたが、尊属殺の規定はそのまま受け継がれ、ただ法定刑に無期懲役が加わり、若干の寛刑化が進んだにとどまった。
- 刑法第200条(現在は削除)
自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス
(自己又は配偶者の直系尊属を殺したる者は死刑又は無期懲役に処す)
このように、尊属を特別に厚く保護するわが国の尊属殺重罰規定は、儒教的な道徳観に基づく尊属尊長の伝統のうえにたったものであった。
憲法第14条と尊属殺人
昭和25年(1950年)大法廷判決(昭和25年10月25日)
戦後になって尊属殺の規定が憲法第14条(法の下の平等)に反するのではないかという問題が提起された。最高裁は、尊属殺の法定刑が死刑と無期懲役だけであるというのは、厳しすぎるおそれもあるが、しかし、犯情によっては刑法の規定に従って刑を減軽することも可能であるし、どこまで減軽すべきかは立法の問題であって、尊属殺規定がただちに憲法違反だとはいえないと、合憲の判断を下した(2名の裁判官が反対意見を述べた)。
刑を減軽する仕組み
ここで、刑法の減軽の仕組みについて触れると、減軽には (1) 心神耗弱(こうじゃく)や自首、未遂、過剰防衛や過剰避難など、個別に定められている法律上の減軽と、 (2) 犯情(情状)が軽いときに裁判官の裁量で行なわれる酌量(しゃくりょう)減軽の2種類がある。法律上の減軽に複数の事由があっても1度しか減軽されないので、減軽は法律上の減軽と酌量減軽の2回だけ行なうことができる。
減軽の具体的な方法は、まず法律上の減軽を行ない、そして酌量減軽を行ない、(1) 死刑を減軽するときは無期の拘禁刑又は10年以上の拘禁刑とし、(2) 無期の拘禁刑を減軽するときは 7年以上の有期の拘禁刑(最高20年)とし、(3) 有期の拘禁刑を減軽するときは、その長期及び短期の2分の1とする(罰金刑以下については省略)(刑法第68条)。
これを尊属殺規定について考えると、その法定刑は「死刑又は無期」であり、下限の無期を選択したとして、まず (1) 法律上の減軽を行なうと、これが「7年~20年の拘禁刑」となる。さらに (2) 酌量減軽を行なうと、「3年半~10年の拘禁刑」となる。そして、最終的にこの範囲内で具体的な宣告刑が決められるのである。
ここで重要な点は、こうして2度の減軽を行なって最終的に一番短い「3年半」の拘禁刑を選択したとしても、3年以下の拘禁刑でないと執行猶予を付けることができない(刑法第25条)という点である。つまり、非常に悲惨な事件であり、どんなに被告人に汲むべき事情があっても、実刑にならざるをえないという点である。これが、昭和48年の尊属殺事件で問題になった。
昭和48年(1973年)の大法廷判決(昭和48年4月4日)
この事件は、14歳の頃から実父による暴力的虐待にあい、性的虐待をも受けて子までなし、夫婦同様の生活を強いられてきた被告人が、やむをえず実父を絞殺したというものであった。第一審は刑の免除、第二審は逆転有罪(3年半の実刑)の判決であった。
最高裁は次のように述べて、14対1の多数をもって、第200条は憲法第14条に違反して無効であると判示し、被告人に対し第199条(普通殺人罪)を適用し心神耗弱減軽のうえ懲役2年6月、執行猶予3年の刑を言い渡したのであった。
結び
以上のように、14対1の多数によって尊属殺重罰規定は違憲とされたものの、最高裁の考えは根本では微妙に分かれていた。
法廷意見(多数説)は、尊属を厚く保護するという立法目的じたいは憲法に反しないが、その目的達成の手段として刑を加重する程度が著しいとして違憲とするものである(重罰違憲説)。これに対して6名の裁判官は、尊属重罰の立法目的じたいが憲法に反するという意見であった(目的意見説)。
実は刑法典には、尊属殺人以外にも被害者が尊属である場合に刑を特別に加重する規定は存在していたのである。重罰違憲説からは、加重の程度が過度でなければ合憲になる。たとえば尊属傷害致死罪(刑法第205条2項)では、最高裁はその後も、同条における刑の加重程度が尊属以外と比べて過度ではないとして合憲としていたのであった(最高裁昭和49年9月26日判決など)。
しかし、刑が著しく均衡を失して重すぎるというのであれば、それは憲法第36条に反する「残虐な刑罰」に当たるのであって、直接憲法第14条の平等原則に反するとはいえない。尊属が他の一般人に比べて刑法で厚く保護されるのは、そこに「なぜ尊属は厚く保護されなければならないのかという」それなりの理由があるはずであり、目的違憲説のいうように、保護の理由そのものが憲法と調和しない道徳的な差別観に基づくものといわざるをえない。
判決には微妙な違いがあるものの、尊属殺人重罰規定が人としての尊厳を侵害するという点では一致していたのである。
その後、さすがに政府も本条を含む一連の尊属重罰規定を削除する刑法改正案を国会に提出したがなかなか成立に至らず、刑法典からすべての尊属重罰規定が削除されたのは、平成7年(1995年)の村山富市政権のとき、大法廷違憲判決から22年の時間が経過してからのことであった。(了)