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賭博場を開張、博徒を結合、現行刑法の古色蒼然たる賭博罪の世界

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
(提供:イメージマート)

はじめに

現行刑法典の第23章には、以下のような古色蒼然たる条文が書かれている。

刑法典第23章 賭博及び富くじに関する罪
第185条(賭博) 賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。
第186条(常習賭博及び賭博場開張等図利) 常習として賭博をした者は、3年以下の懲役に処する。
2 賭博場を開張し、又は博徒(ばくと)を結合して利益を図った者は、3月以上5年以下の懲役に処する。
第187条(富くじ発売等) 富くじを発売した者は、2年以下の懲役又は150万円以下の罰金に処する。
2 富くじ発売の取次ぎをした者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。
3 前二項に規定するもののほか、富くじを授受した者は、20万円以下の罰金又は科料に処する。

一般には「ギャンブル」という方が分かりやすいが、刑法典には可能な限りカタカナ語は用いないというのが法務省の伝統である。

  • 例えば(以前は「汽缶」と書かれていた)「ボイラー」(刑117条)や(「瓦斯」と書かれていた)「ガス」(刑118条)といったカタカナ語が存在するが、コンピュータは「電子計算機」(刑7条の2)に、データは「電磁的記録」(同)に、またネットは「電気通信」(刑175条)という言葉に置き換えられている。

だから、「賭博」という言葉はともかく、第186条には「賭博場を開張」や「博徒を結合して」といった、まるでむかしのヤクザ映画のワンシーンが浮かぶような、一般社会ではほとんど使われない言葉が使われている。

とくに「博徒」とは、いわゆる「ばくち打ち」のことであるが、必ずしも賭博で生計を立てているプロのギャンブラーである必要はない。しかし、かといって単なる賭博の常習者であることもなく、また親分子分の身分関係で結ばれた集団に属する者でなくともよいとされ、結局どう定義してよいのか、よく分からない言葉ではある。

富くじ発売罪(第187条)もそうだ。

「富くじ」とはいわゆる「宝くじ」であり、購入者の中から抽選で当選者を決め、落選者の金銭負担によって当選者に利益を分け与える仕組みのことである。「富くじ」じたいは江戸時代からあり、この条文を見れば私はどうしても上方落語の「高津の富」を思い出してしまう。

「富くじ」の販売者(主催者)には、賭けと違って、金銭的負担は生じないことが特徴である。たとえば「toto」と呼ばれるプロサッカーの試合を対象としたくじの仕組みがそうである(ただし、これは特別法により合法化されているので、販売も購入も犯罪ではない)。

現行の刑法が制定されたのは明治40年(1907年)だが、その前の旧刑法典(明治13年、1880年)にもほぼ同じ規定があり、いずれにせよとにかく古めかしい条文であることは間違いない。

問題は、このような古い賭博罪規定が現代にも通用するのかという点である。

賭博とは

「賭博」とは、サイコロの目とかトランプのカード、ルーレットの数字のような偶然の事情によって財物(金銭)の得喪を争うことである。人の射幸心を煽ることから、射幸的犯罪とも呼ばれる。

しかし、自分の財産を自分の判断でどのように処分しようとも本来は自由である。たとえ汗水流して稼いだ100万円の札束に火を付けて燃やしてしまっても犯罪ではない(ただし、硬貨を故意に損傷したり鋳つぶしたりすると貨幣損傷等取締法により罰せられる)。また、射幸心じたいも不確実性を征服したいという人の本能的欲求に根ざすから、「ギャンブル=悪」という図式は短絡的である。

保険制度が「賭け」から生まれたことは有名な話だが、株も先物取引も不動産投資も、基本的にギャンブルの性格をもっていることは否定できない。未知なるもの、未来へと賭ける「射幸心」こそは人の本能の深い部分と強く結びついている。

では、刑法が賭博を処罰する根拠は何か。

なぜ賭博が犯罪なのか

学説には、射幸を望んで財物を賭け、財産上の被害を受けること、あるいは他人の本能的な弱さにつけ込んで財産的被害を及ぼすことを刑法は処罰するとして、賭博罪を財産に対する罪に位置づけるものもある。この説は、単純賭博行為の非犯罪化の主張につながる点が特徴である。

刑法も、(コーヒーや簡単な食事のように)「一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるとき」(刑法185条)は処罰していない。ギャンブルじたいは多くの人にとって娯楽であるから、その点は評価できるとしても、賭博は窃盗や強盗のように、他人の財産をその意に反して侵害するものではなく、財産の点からだけでは賭博の犯罪性を説明することは難しい。

そこで、学説も判例も古くから、賭博を放置すると国民の勤労意欲が薄れ、さらに賭金獲得や借金返済のために窃盗や強盗など他の犯罪が誘発されることになる(最高裁昭和25年11月22日判決)として、賭博罪を風俗ないしは経済倫理・秩序に対する罪と考えている。

とくに戦時中は、〈戦地で兵隊が命がけで戦っているのに、国内でばくちを打つとは何事か!〉と、道徳的な観点から賭博罪の検挙に力が入り、その数も際立って多かった。これは軽微な犯罪ほど、政治的判断でいかようにも使われるという典型例である。

賭博・富くじ、賄賂及び略取・誘拐の認知件数及び第一審有罪人員の推移(平成元年版『犯罪白書』より)
賭博・富くじ、賄賂及び略取・誘拐の認知件数及び第一審有罪人員の推移(平成元年版『犯罪白書』より)

しかし戦後になって、日本の風俗は大きく変化する。

風俗の変化と賭博についての考え方の変化

都道府県や市町村主催で地方競馬・競輪が広く実施されることになったのが昭和23年。以来、パチンコ店やさまざまな「公営ギャンブル」が国民に広く(合法な)ギャンブルの機会を提供している。ギャンブル産業は、年間数兆円規模とも言われ、賭博罪の規定が「財産上の損害」や「勤労の美風」を守っていると言うことにはもはや違和感がある。

賭博・富くじの認知件数・検挙件数・検挙人員の推移(平成9年版『犯罪白書』より)
賭博・富くじの認知件数・検挙件数・検挙人員の推移(平成9年版『犯罪白書』より)

このような刑法の理念(建前)と社会の現実との大きなギャップを前にして、1970年代に賭博とくに単純賭博の非犯罪化論が強力に主張された。

その背景には、憲法の基礎にある個人主義と多様な価値観の共存を目指す寛容な社会観、あるいは刑法は道徳を守るためにあるのではないとして、一定の道徳・倫理を刑罰によって強制することを否定する考えなどがあった。

これらの思想は現在も魅力を失っていないと思うが、その後、数十年以上も賭博罪の規定は刑法典の中に厳存しており、今では正面から賭博非犯罪化論が議論されることも少なくなった。

インターネットと賭博(オンラインカジノ)

ところが、1990年代にインターネットが大ブレイクして、風俗犯の問題がクローズアップされる。

インターネットによって、個人が国境を越えてダイレクトに他国の文化・習慣に触れるようになった。性表現(ポルノ)もそうだが、世界には賭博規制がゆるい国もあり、日本からもそのようなホームページにアクセスすることができる。ギャンブルに対する考え方が国によって大きく異なるために、地球を覆うインターネットと国内法である刑法との確執が表面化してきているのである。

犯罪の中には、国民が海外で犯した場合にも処罰される「国民の国外犯」(刑法第3条)があるが、賭博罪はこのリストには入っていない。だから、海外旅行中に合法なカジノはもちろん、現地で違法なカジノで遊んでも日本刑法の適用はない。しかし、犯罪行為の一部が日本国内で行なわれた場合には国内犯の扱いとなり、賭博罪による処罰は可能となる。しかも、賭博罪は賭博行為を行なっただけで処罰される犯罪(専門的には単純行為犯という)だから、国内から海外のカジノサイトにインターネットを利用してアクセスして、賭けた段階で国内犯としての賭博罪が成立する(海外の合法な宝くじを日本から購入することも同じ)。

つまり、海外のカジノに実際に出かけて行って、そこで何億賭けようとも賭博罪で処罰されることはないが、国内からネットを通じてカジノサイトにアクセスしてギャンブルを行なえば犯罪となる。この違いを合理的に説明することは難しい。

さらに、オンラインカジノについては、条文の適用じたいにも疑問がある。

オンラインカジノについては、一般に経営者に対して常習賭博罪が適用される。たとえば、「常習として、店内にパーソナルコンピュータを設置し、ウェブサイトを利用して、賭客を相手方としてバカラの賭博をした」といった事案や、(オンラインでなくとも)「店内設置のスロット機を使用して、賭客を相手方として賭博をした」といった事案など、店の経営者や従業員らは常習賭博罪、賭客は単純賭博罪で検挙されている(警察庁生活安全局保安課「令和4年における風俗営業等の現状と風俗関係事犯等の取締り状況について」令和5年5月訂正版)。

しかし、経営者や従業員らははたして「賭博」を行なっているのだろうか。

賭博とは、上記のように、偶然の事情に財物の得喪を委ねることであるが、かれらはその都度勝ったり負けたりすることはあるだろうが、最終的には勝つように(儲かるように)仕組まれている。つまり、財産的なリスクをかれらは負担していないのである。このような行為を「賭博」(ギャンブル)ということはできない。バーチャルなオンラインカジノを設定したということが、「賭博場を開いた」(賭博場開張図利)ことになるのか、あるいは「博徒を結合した」ことになるのかについても疑問は晴れない。

賭博罪の再構成

そこで結局、賭博罪については、次のように考えざるをえないのではないかと思っている。

まず、ギャンブルが倫理的に悪かどうかは別として、国内に「公営ギャンブル」などの合法的賭博が存在するし、ネットを通じて馬券や車券、宝くじなどを合法的に買うことができるという法的現実が存在する。また、賭博罪における実際の検挙事例や検挙数 [*]、賭博が反社の資金源となっているという現実などを考えると、賭博行為そのものを犯罪化すべき理由はなく、国の許可を受けない「違法な賭博経営」こそが今の賭博という犯罪を支える実質的な根拠であるように思われる。

  • [*] 令和4年度の刑法犯認知件数は〈601,331件〉であるが、そのうち賭博罪および富くじ罪を合わせた認知件数は〈164件〉だった(令和5年版『犯罪白書』)。

このような観点から、刑法の賭博罪規定を改正することが望まれるのである。

なお、「違法な賭博経営」という観点は、合法的な賭博と違法な賭博との本質的な違いを明らかにし、さらに海外の合法な賭博(カジノ)であっても、ネットを通じて日本から顧客を募っている場合には、それを日本での無許可(違法)な営業活動と判断することができる点でもメリットがある。(了)

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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