カジノ解禁論議の前に「賭博罪がこのままでいいのか」を考える
超党派の国会議員で構成される「国際観光産業振興議員連盟」(IR議連=通称・カジノ議連)が、カジノ解禁推進法案(特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案)を2013年12月6日に国会に提出し、今月末に招集される通常国会で審議入りしそうな気配です。また、大阪でもカジノ推進の動きが活発化してきたようです。そこで、この際に、刑法典に規定されている賭博罪について改めてその存在意義などを見ておきたいと思います。
■賭博を処罰する根拠とは
まずは条文ですが、賭博罪の規定は次のようになっています。
刑法第185条(賭博)
賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物*を賭けたにとどまるときは、この限りでない。
「賭博」とは、出た数字が偶数か奇数かといったような、偶然の事情によって金銭や財物の得喪を争うことであり、射幸的犯罪とも呼ばれます。しかし、自分の財産を自分の判断でどのように処分しようとも本来は自由だし、射幸心じたいも不確実性を征服したいという人の本能的欲求に根ざすと考えられますので、「ギャンブル=悪」という図式は短絡的な見方です。保険と賭けには関連性がありますし、株も先物取引も不動産投資も、基本的にギャンブルの性格をもっているといえます。未知なるもの、未来へと賭ける「射幸心」こそは社会の基本的な原理と深いところで結びついているといえそうです。
では、刑法が賭博をあえて禁止し、処罰する理由は何でしょうか。
学説には、射幸心をあおって他人の本能的な弱さにつけ込み、金銭や財物を賭けさせて、その結果、財産的被害を及ぼすことを刑法は処罰するのだとして、賭博罪を財産に対する罪に位置づける見解もあります。しかし、賭博は他人の財産をその人の意志に反して侵害するものではなく、財産的被害の点からだけでは賭博の犯罪性を説明することは難しいと思われます。また、反道徳性を強調するのも、後で見るように、社会の現実とかみ合っていないように思います。
そこで、学説の多くや判例は、賭博を放置すると国民の勤労意欲が失われ、さらに賭金の獲得や借金の返済のために窃盗や強盗など他の犯罪が誘発されることになるから、賭博を犯罪として禁止する必要があるとして、賭博罪を風俗ないしは経済倫理・秩序に対する罪と考えています。
【注記】*「一時の娯楽に供する物」とは、その場ですぐに消費される物であって、たとえばお菓子だとか、飲み物の類をいいます。金銭は「一時の娯楽に供する物ではない」というのが裁判所の考えですが、コーヒー代程度の少額のお金であれば、賭博にはならないと思われます。
■ギャンブルに対する価値観の変化
しかし、第二次世界大戦後の流れを見てみると、このような考え方が現在もそのまま通用するとは言いがたいように思われます。都道府県や市町村主催で地方競馬・競輪が実施されることになったのが昭和23年(1948年)のことで、以来、パチンコ店や公営ギャンブルが国民に広くギャンブルの機会を提供しています。ギャンブル産業は、年間2~30兆円規模とも言われ、賭博罪の規定が「財産上の損害」や「勤労の美風」を守っていると言うことには虚しさがともないます。
このような刑法の理念と社会の現実との大きなギャップを前にして、1970年代に賭博行為の非犯罪化論(刑法典からの削除)が強力に主張されたことがありました。その背景には、憲法の基礎にある個人主義と多様な価値観の共存を目指す社会観、あるいは刑罰を背景として一定の道徳・倫理を強制することを否定する刑法の脱道徳化の思想がありました。これらの思想は現在も魅力を失っていないと思いますが、その後も賭博罪の規定は厳存しており、今は正面から賭博非犯罪化論が議論されることも少なくなっています。
■賭博罪の再構成
ところが、90年代後半にインターネットが大ブレイクして、風俗犯の問題がクローズアップされてきました。賭博罪は、国民が海外で行った場合にも処罰される「国民の国外犯」ではないので、海外旅行中にカジノで遊んでも刑法の適用はありません。しかし、インターネットを通じて、海外のカジノ・サイトにアクセスし、ギャンブルをした場合は、犯罪行為の一部が日本国内で行われたという理由で国内犯となり、処罰することは可能となります。ギャンブルに対する考え方が国によって大きく異なるために、地球を覆う通信網と国内法である刑法との確執が表面化してきているのです。
ギャンブルが悪かどうかは別として、パチンコや公営ギャンブルなどの「合法的賭博」が存在するという法的現実、実際の検挙事例・検挙数、賭博が暴力団の資金源となっている現実などを考えると、違法な賭博経営を取り締まるという方向で、暴力団や八百長組織などの反社会的集団対策の一環として賭博罪を構成し直すべきではないかと思います。