IPCCのメッセージと日本人の無関心
IPCC報告書は何を伝えているか
三月二〇日に国連「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)第六次評価報告書の統合報告書が公表されました。その内容は各所で詳しく紹介されているので繰り返しませんが、僕なりに乱暴にまとめると、そこから読み取れるのはだいたいこんなことです。
世界の脱炭素化への転換と気候変動適応は、人類にとって、やらないと酷いことになるだけでなく、早くやった方が絶対に良い。なぜなら、気候変動の影響が抑えられるだけでなく、健康等にもプラスだし、うまくやれば社会をより公正にできる。そのために必要な資金も、技術の大部分も、人類は既に持っている。そして、今すぐ急激に舵を切らないと、そのような良い状態は実現不可能になってしまう。
ここまでを聞くと、そんな「やり得」な話には当然乗るべきで、このチャンスを見逃すような判断はおよそ合理的な気がしないわけです。しかし、報告書のメッセージには続きがあります。
実際には、現状の転換スピードはまったく足りていない。転換のための投資もまったく足りていない。インフラや社会システムも化石燃料依存のパターンから大きく抜け出せていない。この転換を可能にするポイントの一つは、脱炭素化の敗者を生み出さないように配慮して進めることである。
最後の点は重要です。なぜなら、幅広い合意がなければ大きな転換は起きにくいし、一部の人たちを置き去りにするのは本末転倒だからです。裏を返せば、実際にはそのような配慮が簡単ではないからこそ、転換が十分に進んでいないともいえます。つまり、世界全体でマクロに見れば進むべき方向は自明なんだけれども、その方向に進んでいくためには様々なレベルの利害調整や納得感の醸成が必要なので、時間がかかってしまって十分なスピードが出ていないのです。それが同時に意味するのは、今の調整スピードのままでは、我々の文明は「良い状態」への移行を諦めざるをえないだけでなく、「酷い状態」にずるずると向かっていくということです。
世間の無反応
このことは、統合報告書を待つまでもなく、だいたいわかっていたことではあります。僕が今回特に書きたいと思うのは、この内容自体よりもむしろ、このメッセージに対して、世間の人々がほぼ無反応であることです。
気候変動に関するメッセージでは毎回危機感を露わにする国連のグテーレス事務総長が、今回は「気候の時限爆弾が針を進めている」と警告したのをテレビやネットで見た人もいたでしょう。しかし、多くの人はそれを見ても「たいへんみたいだけど、自分が心配してどうにかなりそうな話でもないし、他にも考えることがいろいろあるから」といったような理由で、ほとんど気にも留めなかったことと思います。この危機感の伝わらなさのギャップが凄いなと、今回僕は改めてうなったのでした。
「Don’t Look Up」というNetflixの映画をご存じの方もいると思います。地球に巨大隕石が衝突することに気が付いた科学者が社会に対して懸命に警告するのですが、まったく相手にされないという話です。僕はこの映画を観て、実際に何らかの理由で文明が終焉を迎えるときというのは、おそらくこのパターンの社会の反応が起きるのだろうなと思わせる、不気味なリアリティを感じました。
最近知ったのですが、一年ほど前に、科学がいくら明確な結論を出しても政治が十分に応答しないことに業を煮やしたニュージーランドなどの気候科学者三人が、政治が責任を果たすまで気候科学の研究を中止する「モラトリアム」を提案したことがありました。いってみれば、科学者の「気候ストライキ」です。これに対して多くの科学者が賛同することはなかったわけですが、現状に耐えかねてやむにやまれずにストライキを提案した彼らの気持ちが、僕にはわからないでもない気がします。
日本人は特に無関心
最近のいくつかの国際調査を見ると、特に日本人には気候危機がピンときていないようにみえます。電通総研が最近発表した「気候不安に関する意識調査」によると、気候変動を「とても」〜「極端に」心配している若者の割合は、他の調査対象国が五割前後(フィリピンに至っては八割を超える)であるのに対して、日本は二割未満でした。逆に「心配していない」若者は他の国では一割未満なのに対して、日本では一五%近くいました。
また、二〇二一年のピュー研究所の調査によると、気候変動の影響を自分自身が受けると強く思う人の割合が、六年前の調査と比較してどの国でも増加しているのに、日本だけはなぜか減少していました(二〇一八年、一九年には日本で記録的な水害があったにもかかわらず)。ほかにも日本は、気候変動対策のために自分の生活を変えてもよいと答えた人の割合が調査対象国中で最下位、国際的な気候変動対策は自国の経済に有益と答えた人の割合が下から二番目でした。
日本人の気候変動問題への反応が特に鈍い理由は、仮説としていくつか挙げられます。もともと自然災害が多く、自然にしたがって生きる東洋的自然観もあり、災害が激化しても受け入れてしまう。「失われた三〇年」の低成長が続き、そこから浮上することを考えるのに精いっぱいで、世界や地球や将来のことを考える余裕がない。地理的にも言語的にも島国として孤立しているので、世界のことを考える機会が少なく、入ってくる情報も限られている。脱炭素化に消極的な重厚長大産業の政治的な発言力が強いことが、世論にも影響を与えている、などです。
また、前記のいくつかと関係しているかもしれませんが、日本人は気候変動対策を我慢や負担だと捉える傾向が顕著なようです。そのため、無関心な人ほど「自分はあまり我慢していない」という後ろめたさがあり、ますます気候変動の話題に近づきたがらなくなるのではないかというのが僕の仮説です。
無関心だと何が困るのか
人々の気候変動への無関心や無反応を問題にする際、よく議論されるのは人々のライフスタイルのあり方です。つまり、人々が気候変動問題に関心を持って、温室効果ガスの排出を減らすライフスタイルに転換すべきだという考え方があります。しかし、僕はこの側面をあまり強調しません。人々の価値観は多様なので、自主的にそのような行動変容を起こす人はたいした割合にならないと思うためです。また、エネルギーの需要側や消費の変化は重要であるものの、発電などの供給側や産業も大きく変化しないとCO2排出実質ゼロを目指すことは当然できません。
僕はそれよりも、人々が「気候政策を支持すること」の方がもっと大事だと思っています。たとえば、東京都のように太陽光パネルの設置が原則義務化されれば、家を建てる人はほぼ誰でも太陽光パネルを載せるわけですし、建築物省エネ法の改正によって、誰でも省エネ住宅を建てることになるわけです。制度やインフラが変わることによって、その結果として人々のライフスタイルも一気に変わります。
社会の「調整スピード」を上げるためには、そのような政策をスピード感をもって実現することが必要です。しかし、人々が無関心だと、政治や行政がそのような政策を提案し設計する動機を十分に持たないですし、政策への支持も広がりません。それが、本当に困ることなのだと思います。無関心が、人類の持続可能な文明への移行の可能性を閉ざすように働いているのです。
もっとも、日本の人々が気候変動に無関心であっても、他国において関心を持った人たちが他国の政治を動かし、金融を動かし、企業を動かし、日本にもプレッシャーがかかってきています。その結果(というと言い過ぎかもしれず、もちろん日本の関心層の影響も少しはあるでしょうが)、日本の政府も、多くの企業や自治体も、脱炭素化を目指すようになってはいるわけです。しかし、そのような受動的な形では、日本の脱炭素化政策は常に後手にまわり、国際競争上の不利が生じていくのではないでしょうか。
そればかりか、本稿執筆時点(二〇二三年四月)で聞こえてくる報道によれば、日本は今年のG7議長国として脱炭素化の議論をうまくリードできておらず、むしろ世界の脱炭素化の「調整スピード」を遅らす立場に陥っているといえるかもしれません。もちろん外交において自国の事情をしっかり説明することも大事ですが、日本国民の気候変動政策への支持がもっと高かったら、政府の姿勢も違ったものになっていたかもしれないと想像します。
日本人の「伸びしろ」
最後にもう一度言いますが、IPCCの統合報告書によれば、人類全体でみれば、脱炭素化と気候変動適応への急速な転換が望ましい道であることは明らかです。しかし、ただでさえ難しいその実現に対して、日本人の突出した無関心さが足を引っ張ってしまっているようにみえます。
日本にも、気候危機に関心を持つ人や気候政策を支持する人はそれなりに存在しますし、もしかしたら増えてきているかもしれません。逆に、他国にも無関心な人や気候政策に抵抗する人はそれなりの割合で存在します。ですから、日本だけを卑下する必要は必ずしもありません。むしろ、日本人の気候変動認知には大きな「伸びしろ」があり、日本人の関心が高まれば世界の持続可能性に大きく貢献すると、前向きに考えた方がよいのかもしれません。
諦めないこと、それが希望をつなぐための必要条件なのですから。
(初出:岩波『世界』2023年6月号「気候再生のために」)