なぜ日本人は気候変動問題に無関心なのか?
日本で気候変動問題への関心が低いことについて、科学の立場から論じてほしいというお題を『環境情報科学』というところからいただいた。筆者は科学の立場から論じるべきことをあまり持ち合わせていなかったが、せっかくなので最近考えていたことを書いた。
少しでも多くの方に読んでいただくために、ここに転載させていただく。(長文ご注意)
はじめに
本稿に期待された役割は,気候変動に関する自然科学の立場から,科学的知見とそのコミュニケーションが,日本における人々の気候変動への関心と行動に及ぼす影響を論じることであった。
しかし,筆者の考えでは,この問題において科学的知見の面からアプローチする意義は限定的である。気候変動に関する科学的知見のコミュニケーションは,主として既に関心のある層に対して行われ,彼らの知識を強化することはあっても,それが無関心層に拡散することは経験上難しい。もちろん,無関心層の目に触れるさまざまな機会を狙ってコミュニケーションを行い,無関心層の中の潜在的関心層にアプローチすることに一定の効果はあるだろう。だが,それがこの問題に対する本質的なアプローチであるようには筆者には思えないのである。
本稿では,筆者が気候変動の科学の専門家として社会の各層と過去15 年間ほどコミュニケーションを行ってきた経験に基づき,気候変動への「無関心」問題について筆者なりに考えていることを述べたい。ここで述べることの大部分は,実証的な根拠にも過去の研究のサーベイにも基づいていないが,将来の研究に対する仮説の提示にはなりうるかもしれない。そのようなものとして自説を展開させていただくことをお許し願いたい。
1.関心の動機につながりうる自然科学的知見
まず,本稿に期待されていた役割を最低限果たすために,「無関心」問題に関連しうる自然科学的知見についてまとめておきたい。
第一に,近年地球が実際に温暖化している(世界平均気温が上昇傾向にある)ことについて,科学的にはデータにより確認されているが(IPCC, 2013),これは多くの人の素朴な実感と整合しているだろう。これを疑う言説は最近ほとんど聞かれなくなった。特に,2000年ごろからの世界平均気温上昇の停滞期(ハイエイタスと呼ばれる)には,「温暖化は止まった」「予測は外れた」といった言説がよく聞かれたが,2015年ごろから再び顕著な気温上昇が起きて以来,それも聞かれなくなった。
第二に,近年の地球温暖化の主な原因が人間活動であることについて,IPCC(2013)では,「可能性が極めて高い」(95%以上の可能性)としている。これが一般によく理解されているかというと,筆者の実感では疑わしい。関心層にはよく理解している人が多いが,無関心層の多くはおそらく「どっちでもいい」と思っており,科学的な説明を聞く機会があったとしても,関心の顕著な増加にはつながりにくいと想像される。
第三に,いわゆる「異常気象」(30年に一度よりも稀な極端現象)が地球温暖化に伴い増えていることについて,科学的には,「イベント・アトリビューション」とよばれる分析手法が近年発展し,例えば2018年夏の日本の猛暑は地球温暖化がなければほとんど生じ得なかったなどの知見が得られている(Imada et al., 2019)。世間一般においても,2018年の西日本豪雨,2019年の台風19号のような近年の異常気象被害をきっかけに,異常気象と温暖化の関係が話題になることは増えてきているだろう。ただし,無関心層においては,その受け止めはせいぜい防災の文脈であり,「脱炭素」の必要性のような緩和策の文脈でとらえられる機会は未だ少ないようにみえる。
最後に,将来の地球温暖化のリスクについて,科学的には気温上昇量の予測等に幅があるものの,異常気象のさらなる増加,海面上昇,農業,健康,生態系等への悪影響がかなりの確度で理解されてきている。多くの人はこれらについて断片的に聞く機会はあるだろうが,無関心層においては,比較的遠い将来のことであるし,心配してどうにかなるものでもなさそうだというような理由で,聞き流すことになりがちだろうと想像する。
2.地球温暖化懐疑論・否定論の影響
気候変動の科学的知見に関するコミュニケーションについて語る際,いわゆる地球温暖化懐疑論・否定論の存在は避けて通れない。
特に英語圏においては,化石燃料資本,保守系シンクタンク,保守系メディアのネットワークにより組織的に展開される懐疑論・否定論の言論活動の存在がよく知られており(オレスケス・コンウェイ,2011),イデオロギーや宗教などの文化的な背景と相まって,米国においては保守とリベラルを分断する主要テーマの一つとなっている。
インターネット上の観察から,懐疑論・否定論には多くのバラエティがあることがみてとれる。「気候モデルは信用できない」「気温データの補正は疑わしい」といった科学らしさを装う手の込んだものから,「CO2は植物の栄養だから増えたほうがいい」「CO2は空気の0.04%しかないのだから気温上昇に効くわけがない」といった科学的には論外だがシンプルで拡散力がありそうなものまでよく見かける。結果としてインテリ層から非インテリ層まで幅広く影響を及ぼしうるが,これは戦略的にそのような設計で発信されているのかもしれない。
日本においては,筆者の印象では英語圏の資本による組織的な懐疑論・否定論の直接的な影響はほとんど見られないが,英語圏発の懐疑論・否定論はインターネット等を通じてそれなりに拡散している。
日本において懐疑論・否定論に同調的な層は,筆者の観察では3つに分類できる。
1つ目は気候変動対策で規制が導入されることを嫌う産業寄りの保守層である。意図的に懐疑論を広めるのではないにしても,懐疑論が本当であったら有難いくらいに思っている人はこの層に多いだろう。
2つ目は反原発を掲げるリベラル層の一部で,地球温暖化説は原発推進の口実であるという認識に基づき気候変動の科学を敵視する。この層は2011年の福島第一原発事故後に増加したが,現在はそれほど目立たなくなった。1つ目と2つ目は対極的な文化的グループに属することが興味深い。
そして3つ目が無関心層である。この層は比較的とらえどころがないが,例えば「Yahoo!ニュース」の気候変動関連の記事にシニカルなコメントを書き込む人たちを観察して,筆者なりに想像する彼らの心情は以下のようなものだ。彼らは地球温暖化が本当でも嘘でもどっちでもいいのだが,自分は面倒な対策行動をする気はないので(あるいは対策行動を強いてくる説教臭い言説に反発を感じるので),それを無意識に正当化するため,懐疑論にとりあえず同調しているのではないか。
これらの人たちに気候変動の科学の説明が届いたとしても,彼らが懐疑論・否定論を見限ることを期待するのは一般に難しいだろう。2つ目に挙げた反原発層は,筆者の経験ではかたくなな場合が多い。気候変動の科学を敵視することが,自身の正義感やアイデンティティに支えられているためと想像される。3つ目の無関心層は科学を理解する動機も,考えを変える動機も持ち合わせていない。唯一,1つ目に挙げた保守層は,彼らのビジネスにおけるメリットもしくは危機感と絡めれば,考えが変わる人が案外いるかもしれない。
なお,ここには分類しなかったが,気候変動問題に関心がある層の中で,懐疑論・否定論に触れ,説得力のある反論に出会えていないために疑問を持ち続けている人にもたまに出会う。このような人に科学的な説明が届くことには大いに意義がある。
3.無関心の根底にある「負担意識」
ここまで見てきたように,日本における気候変動問題への無関心の根底にあるのが科学的知見の欠如であるようには筆者には思えない。それ以前の問題として,多くの人には科学的知見に目を向けず,科学的知見に触れたとしても受け止めずにやり過ごすことを,無意識にせよ選択させている動機が存在するのではないか。
筆者の仮説は,その動機の根底にあるのは,対策行動の「負担意識」ではないかということだ。つまり,気候変動を対策するためには,個々人が,時間,手間,注意力,快適さ,金銭等の自身の持つリソースを幾ばくか負担する必要があるという観念である。
平たくいえば,地球温暖化を止めるためには,個々人が我慢や経済的負担や面倒な行為や生活レベルの引き下げなどを受け入れる必要があるという認識を多くの人が前提としているのではないかと思うのである。
そして,この負担意識に対する反応は人によって異なる。環境問題への「意識が高い」人の多くは,進んでこの負担を受け入れようとし,負担を受け入れる自分に肯定感を感じ,社会の全構成員が同じように負担を受け入れることを望むだろう。
一方,それ以外の多くの人々は,無意識に負担を忌避する心情が働き,その結果として無関心になるのではないだろうか。もしくは,気候変動についての言説が,負担を受け入れない自分への批判に感じられるためにそれに反発し,人によっては懐疑論・否定論に同調するようになる。これらが「無関心」の根底にあるのではないかというのが筆者の経験に基づく仮説である。
日本において特に負担意識が高いことを示唆するデータは,2015 年に行われた世界市民会議(World Wide Views on Climate and Energy)の結果の中に見てとれる(World Wide Views, 2015)。「あなたにとって,気候変動対策はどのようなものですか」という問いに対して,「多くの場合,生活の質を高めるものである」と回答したのは,世界平均の66%に対して日本では17%,「多くの場合,生活の質を脅かすものである」と回答したのは,世界平均27%に対して日本では60%であった。
また,傍証としては,「Yahoo!ニュース」で気候変動対策の必要性を訴える若者などの主張が紹介されると,必ずと言っていいほど「生活レベルを落とすことになるのをわかっているんでしょうか」といったコメントが匿名ユーザーから投稿され,多くの「いいね」が付くことが観察される。
4.必要な「行動」とは何か
負担意識を前提とするとき,気候変動問題に関心を持った人が取るべきと想定されている「行動」は,主として自身の生活からのCO2排出(食生活に関していえばメタン排出も含む)を削減するための環境配慮行動やライフスタイルの変化である。
しかし,必要な「行動」をこのような枠組みでとらえることには,2つの面で問題がある。1つ目に,現在必要とされている気候変動対策(パリ協定の「1.5℃」を目指すのであれば,2050年前後に世界のCO2排出量を実質ゼロまで削減)の規模に対して,このような行動のみではまったく足りないことである。2つ目に,個々人がこのような行動で自分の役割を果たしたと思って満足してしまうと,結果的に現状の社会経済システムの許容につながることである。
では,本当に必要な「行動」とは何だろうか。その手がかりとして,スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんがなぜ飛行機に乗らず,大西洋をヨットで横断したのかを考えてみるとよい。負担意識を前提とするならば,「私が飛行機に乗るのを我慢することで,一人分のCO2排出を減らしたい」,あるいは「私も不便を受け入れているのだから誰もがそうすべきだ」と解釈することになるだろう。
しかし,グレタさんは次のように発言している。
つまり,個人の変化も必要だが,本当に必要なのはシステム,つまり社会経済等の仕組みの変化だという。
また,彼女は次のようにも述べている。
彼女が飛行機に乗らないのは,システムの変化が必要であることを訴えるメッセージなのであり,誰もが飛行機に乗るべきでないとは言っていない。グレタさんに反発する無関心層はもちろんのこと,実は関心層の中の多くの人も,負担意識を前提としているため,このことをほとんど理解できていないのではないか。
筆者もグレタさんと同様に以下のように考えている。個人に必要な行動としてより本質的なのは,自身の生活で発生するCO2をこまめに減らすことよりも,システムの変化を後押しするための意見表明,投票行動,消費行動における選択,地域社会での取り組みへの参加などである。
個人の環境配慮行動については,自身の意見と生活を整合させるためといった意味もあろうから否定するつもりはないし,社会に対するメッセージであるという意識を持って環境配慮行動をとるならば,なお良いだろう。しかしいずれにせよ,気候変動問題に関心を持った人々が,個人の環境配慮行動をとることで「自分に応分の負担をした」と思って満足して終わりにしてしまう状況は望ましくない。
5.システムの変化を起こすために
筆者の考えでは,システムの変化を起こすことを最優先で考えた場合に,社会の構成員の大部分が問題に関心を持つ必要は必ずしもない。このことはトランジション・マネジメントといった分野で理論化されていると想像するが,筆者はあまり詳しくないので,筆者自身が実感している例を用いて説明したい。
筆者が持ち出す例は「分煙」である。30年ほど前は,路上,飲食店,交通機関,職場等で喫煙できることが当然だったが,現在では考えられない。2002年に健康増進法で受動喫煙防止が努力義務となり(改正により2020年よりさらに強い義務化),飲食店等も分煙や禁煙で経営するのが当然となり,大多数の喫煙者が分煙ルールに従うというシステムの変化が生じた。
社会の構成員の大部分がこの問題に関心をもったわけではないにもかかわらず生じたこの変化は,受動喫煙の健康被害を立証した医師,嫌煙権訴訟を闘った原告や弁護士などの「声を上げた人たち」に加え,それらを支持した一部の人たちの存在に因ったのではないか。そして,社会の構成員の大部分は,無関心でいるうちにいつの間にか生じたシステムの変化に受動的に従っただけである。
人々の価値観は多様であるため,社会の大部分の人たちが気候変動問題に本質的な関心を持つことを期待するのは難しい。このとき,気候変動に無関心な人を非難する筋合いもない。彼らは他の社会問題には強い関心を持っているかもしれないし,気候変動に関心がある人が他の社会問題に関心を持っているとは限らないからである。
このように考えると,気候変動対策のためのシステムの変化を起こすための筋道は,問題に本質的な関心を持った一部の人たち(多いほうがいいが,大多数である必要はない)がシステムに本質的な働きかけを行うことであり,大多数の人たちがわずかな関心を持って自分にできる環境配慮行動を人知れず行うことではない。
例えば,日本のすべての電源が再生可能エネルギーになれば無関心な人がいくら電気を使ってもCO2は出ないのであるし,新築住宅にネットゼロエネルギーハウス(ZEH)が義務化されれば無関心な人でもZEHを建てるようになるのだから,早くそのような状態を作ることが重要なのである。
6.本質的な「関心」の持ち方
では,気候変動問題に本質的な関心を持つとはどんな状態だろうか。筆者が本質的と呼びうるのは,気候変動問題が自身の「人生のテーマ」になるほどの関心の持ちようである。
気候変動のリスクを自身や大切な人たちの生死にかかわるような「実存的な」リスクだととらえた人,あるいは先進国がこれまで排出した温室効果ガスによって発展途上国の脆弱な人々や将来世代が深刻な被害を受けることを倫理的に許容できないと強く感じた人,社会の脱炭素の必要性・緊急性・重大性を理解し,それに全力で取り組むことに人生の意義を見出した人,などがそれにあたるだろう。
欧米にはそういう政治家がいるし,セレブリティ(例えば,俳優のレオナルド・ディカプリオ)もいる。グレタさんをはじめとする気候ストライキを行う若者たちも,おそらく大部分はこのような関心を持っている。
日本でも,環境NGOで活動する人たちや気候マーチを行う若者たちがいるが,おそらく他国に比べて規模が非常に小さく,裾野の広がりが狭い。欧米では,環境NGOに共感するが自分で活動するほどの時間は割けないという人たちがNGOに寄付をすることが多いと聞くが,日本では環境NGOは社会から十分な認知を得ておらず,「自分とは関係ない極端な主張の人たち」だと思われている印象がある。
このような日本の特殊性は,日本の文化的な特徴に因る部分もあるだろうから,簡単には変わらないかもしれない。しかし,前述した「負担意識」のナラティブを変え,気候変動対策とは本質的には社会をアップデートする前向きなシステム変化であるという認識を広めていくことができれば,状況は改善するのではないか。
つまり,人々の気候変動問題への無意識な拒否感を弱め,潜在的な関心層が本質的な関心を獲得する機会を増し,その裾野に本質的な関心層ではないにしても彼らに共感し,彼らを支持する層を厚くすることができるのではないか。
7.結論および新型コロナ危機対応との対比
以上をまとめると,筆者の考えでは,日本において気候変動に無関心な人が多いという問題に対しては,わずかな関心を持って個人の環境配慮行動をとる人々を大勢増やすのではなく,本質的な関心を持つ人々とその支持者を増やし,システム変化を起こすことを目指すアプローチをとるという認識を明確に持つべきだと思う。
この認識に基づけば,無関心な人はある程度多く存在し続けていても,システムが変われば結果的にそれに従うので問題はない。
この際に,日本社会に蔓延すると思われる気候変動対策の「負担意識」を変えることが有効だと筆者は考える。負担意識は無関心層だけでなく,関心層の中にも根強く存在していると想像されるため,これを変えていく必要がある。つまり,関心層がシステム変化のアプローチを理解することを通じて,「自分は負担したので満足だ。他の人も負担すべきだ」と考える状態を脱してほしい。
これによって,無関心層が気候変動対策への無意識な反発により懐疑論・否定論に同調して邪魔をしてくる状況が緩和されると同時に,潜在的な関心層の気候変動問題への接近が容易になり,本質的な関心層とその支持者層が増えることを期待する。
最後に,本稿執筆中に世界は新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大危機に突入しているため,その中において考えたことを少し述べたい。
コロナ危機においては,手洗い・消毒・社会的距離の確保といった個人の行動変容が感染拡大防止に本質的な重要性を持つ。また,外出や集会などの活動の自粛が要請され,多くの人々がそれに従っている。その副次的効果として,世界のエネルギー需要もCO2排出量も一時的に減少している。
しかし,この状況を,気候危機対応のモデルであると思わないほうがよい。気候危機対応においては,個人の生活レベルでの行動変容はそこまで本質的な重要性を持たないし,数十年続く気候危機対応で現在のコロナ対応のような活動制限を行うことは不可能だからである。
むしろ,気候危機対応の本質は,コロナ危機において治療薬やワクチンの開発が急がれていることに近いのではないか。活動自粛に反発したり疲れてしまう人はいても,治療薬・ワクチンの早期の開発と普及によるコロナ危機の「出口」を望まない人はいないだろう。
気候危機においてそのような「出口」に相当するのが,エネルギー,交通,都市,食料などのシステムの脱炭素化である。その必要性を理解し,それを心から望み,それに協力できることがあるならば惜しまないことが,人々に本当に必要とされる気候変動問題への「関心と行動」であると筆者は考える。
(初出:江守正多(2020)気候変動問題への「関心と行動」を問いなおす―専門家としてのコミュニケーションの経験から, 環境情報科学, 49 (2), 2-6.)