阪神・横田慎太郎選手 もがいて苦しんで、闘い抜いた24歳の引退
きのう9月22日の正午すぎ、阪神タイガースの横田慎太郎選手(24)が現役引退を発表しました。球団事務所で、まず「わたくし横田慎太郎は今シーズンをもちましてユニホームを脱ぐことを決めました」との挨拶で始まった会見。その後、テレビの代表インタビューで横田選手はしっかりと前を向いて受け答えしていたのですが、囲み取材で両親のことを聞かれた際は言葉を詰まらせ、まさに男泣きでした。
取材陣もしかりです。涙で質問ができない記者やもらい泣きする記者、カメラマンさえ目を赤くする会見は、録音を聞いても鼻をすする音があちこちから漏れていたほど。私は横田選手が引退を決意した理由を語ったところで、もう我慢の限界でした。1軍の開幕戦で先発出場した2016年よりも「病気になってからの2年半が一番の思い出」と言ったことに涙が止まらなかった方は多いでしょう。
2017年2月の春季キャンプ中に脳腫瘍と診断された横田選手は、大手術と闘病生活を経て寛解(病状が収まって軽減した状態)に至り、鳴尾浜へ戻ったのが7か月後の9月です。リハビリとトレーニングに励み、育成選手となった翌2018年2月の安芸キャンプで屋外フリー打撃を再開できるまで回復しました。その安芸キャンプでの話も、のちほど書かせていただきます。
2018年4月10日以降は鳴尾浜の試合でベンチに入り、ことしの春から舞洲でのオリックス戦に限りチームに同行もしていました。元気に練習してベンチで声を出し、イニング間にキャッチボールをする姿は、ただ明るい未来しか予想できないもので、ファンの方からは「そろそろゲームも」という声も聞こえたのですが、試合出場に踏み切れない何かがあることは感じていました。病気が横田選手の目に与えた影響も。
ひとりで苦しい戦いを続けていたことを語った22日の会見、まずテレビのインタビューからご紹介します。
「もがいて苦しんできた2年半」
Q、今の心境は?「自分で決めたことでもありますので、まったく後悔はありません」
Q、引退の決意はいつ頃、どういう経緯で?「やっぱり一番に“目”のことが大きいです。自分で打った打球もまったく見えず、ピッチャーに投げてもらった球も二重に見えたり、守備の際にもボールが二重で飛んで来たり。目がぼやけることが多かったので、来シーズンもこれを続けるなら厳しいかなと思い、決断しました。この2年半はすごく苦しかったですけど、自分が野球をやりたいと思ってした決断なので悔いはありません」
Q、監督やチームメイト、誰かに相談して?「自分で決めました。両親にも少し相談しましたけど、基本は自分で。自分の意思が強かったので」。その結論に、お父さんは何と?「自分で決めた考えだったので何も言わず、今まで本当にお疲れさんと言ってくれました」
Q、脳腫瘍の診断を受けてから今まで、振り返ると?「脳腫瘍と言われた瞬間、本当に頭が真っ白になって、今後も野球ができるか不安ではありましたけど、たくさんの方に支えられてここまで来られたので、皆さんには心の底から感謝の気持ちしかありません」
Q、横田選手を支えたものは何ですか?「毎日、練習をしていたらファンの方がたくさん来られていて、試合に出ていないにもかかわらず僕の応援をしてくれて。それが一番大きかったです」。鳴尾浜でファンの方からかけられた言葉で印象に残っているのは?「やっぱり、一日も早く試合に出て、そして24番を取り返してくださいと言われた瞬間は…。自分もその気持ちでやっていましたし」
Q、24番について。「桧山さんという素晴らしい選手の番号でもありますので、最初は僕でいいのかなとも思いましたけど。こうやって124番になって『もう一回取り返してやる』っていう気持ちで今までやってきましたので、すごく残念ですね」
Q、同じチームに、病から復帰した原口選手も。「原口さんが病気から帰ってきた際にも、一緒に活躍してお立ち台に立とうという話もありましたし。今でも活躍されていているので、本当に素晴らしい先輩だと思っています。原口さんに言われたことはたくさんありますけど、『何をするにしても前を向いていこう』というのが一番印象に残っています」
Q、プロ6年間での思い出は?「開幕スタメンで試合に出たのもそうですけど、病気になってから2年半、すごく自分の中でもがいて苦しんで、いろんなことを思って野球をしてきたので、この2年半の方が一番の思い出です」
その日が必ず来る!と信じてきた
Q、金本監督の初年度だった2016年、横田選手にとって3年目の開幕戦でスタメンだったことについて。「ものすごく緊張しました。足が震えるくらい緊張したので、今でも印象に残っています」。初盗塁を決めたんですね?「はい。震えながら走ったんですけど、セーフになって安心しました」。次の日も覚えていますか?「覚えています。初ヒットを打ったので、すごく嬉しかったです」。タッチアップでアウトになったことも。「はい。ちょっと強気なプレーもありましたけど。すべての面において、いろいろ印象に残っています」
Q、今後については?「球団の方からも話をもらっていますけど、両親と考えて決断したいと思っています」。同じ病気の方に夢を与えたいと言ってきたことも継続?「今でもそれは変わっていなくて、苦しんでいる方がいらっしゃいましたら、自分に負けず自分を信じてやっていくのが一番だと思うので。そこは変わっていません」
Q、横田慎太郎選手にとって野球とは?「小さい頃から野球しかしてこず、ずっと野球をしてきて、こうやって病気になってユニホームは脱ぎますが、最後にプロ野球という世界で野球ができて、しかも阪神タイガースという素晴らしい球団で野球をやらせてもらって、本当に感謝の言葉しかありません」
Q、今も前を向いて話をしてくれている、その前向きさの原動力は?「病気をしてから、病気と一緒に闘っていくにはマイナスの発言をしたら絶対にダメだと思っていて、自分の中でもプラス、プラスに考えて『絶対どうにかなる』『その日が必ず来る』と信じて今までやってきました」
Q、ファンの方に言葉を。「ファンの方には入院中から、たくさんの千羽鶴や手紙が届いて、もう一回グラウンドでユニホームを着て、と思ったのは皆さんのおかげなので、本当に感謝の気持ちしかありません」
来年もこのままなら厳しい、と決断
このあと、選手代表として高山選手と北條選手が花束を手渡し、写真撮影。いったん退室して戻ったところで囲み取材が行われました。
Q、引退というのは難しい決断だったのでは?「もう本当に、ことしは自分の中で苦しかったので、これがもし来年も続くのであれば、ちょっと厳しいかなと思い、決断しました」。やはり目のことが一番?「目の方がやっぱり…。1球もボールがきれいに見えなかったので、毎日すごく悔しかったですし、また来年も一緒だったらと思ったら辛かったので、自分でお願いしました」
Q、いろんなことがあったと思いますが、振り返ってみて。「最初の方は1軍にも少し出させてもらって、すごく嬉しかったですけど。病気をしてからの野球人生の方が、本当にもがいて苦しんで、いつも何でボールが見えないんだろうと思いながら練習もしていましたし。この2年半の方が自分の中では印象が強いですね」
Q、病気を公表してから、同じ境遇の人に勇気や夢をと言ってきた思いは、これからも?「そこは今でも変わっていませんし、これからも絶対変わることなく、今苦しんでいる方がたくさんいると思うので、そういう人たちに何かの形でいいところを見せられるよう、これからの人生を頑張っていきたいと思います」
Q、鳴尾浜で選手からかけられた言葉も励みになった?「たくさんの選手から、いろんな言葉をかけてもらい、いつも励みになりました。自分でもいろんなことに挑戦しましたけど発展もなかったので、後半の方はすごく悔しかったのが一番です」
両親を思ってあふれた涙…
Q、花束を持って登場した高山選手、北條選手について。「嬉しかったです。ずっと“いじって”もらったので、2人には」。ここで少し笑いが起き、横田選手も和んだ感じです。高山選手とは2016年の開幕から1番、2番で『超変革』の象徴でした。特別な思いがある?「特別ですし、高山さんは日常生活でもすごく助けてくれた先輩。北條さんも。いい先輩です」
Qご両親への感謝が一番でしょうね。「両親には、ほんと一番多くて。僕が治療中、髪が全部抜けた際にもお父さんが鹿児島から…お父さんが丸坊主にして来てくれて。本当に、あれを見た時…。両親が帰ったあと、ひとりで大泣きして。お母さんも仕事を辞めてまでこっちに来てくれて。15時間の手術が終わった際にも、僕は目の方が回復せず何も見えなくて、トイレに行くにしてもお母さんたちが抱いていかないと行けない。ご飯を食べるにも見えないので。本当に毎日、『自分は何をしているんだ』と思いながら入院していました。試合には出られていませんが、やっぱりこうやって野球ができたのは、本当に素晴らしい両親のおかげなので。感謝の気持ちしかありません」
もとプロ野球選手の父・横田真之さんは、薬の副作用で髪が抜けた息子のため、自分も頭を丸めて病院へ行かれたとのこと。お母さんは仕事を辞めて看病をし、退院後も付き添われたんですね。どれだけ大変な日々だったか、口下手な横田選手が泣きながら一生懸命話してくれた言葉で伝わってきました。そんなご家族のため、鳴尾浜に戻ってからはトレーナーの方が写真や動画、記事などを鹿児島へ送って様子を伝えてきたそうです。
「夢をかなえてあげたい」と本部長
会見後、谷本球団本部長にお話を伺いました。引退の意思表示があったのは「今週に入ってからですね。18日だったと思います」とのこと。「私も会見を聞かせてもらったんですけど、かなり人知れず苦しんでいたんだなというのがよくわかりました。重篤な病気だったのに、よくグラウンドに立つまで戻ってきてくれたと感謝していますし、それだけでも褒めてあげたいなと思います」
球団の方でもセカンドキャリアのサポートを考えて?「そうですね。先ほど聞いていて、彼もまだ結論を出していないみたいですね。彼の生き方そのものが素晴らしいと思いますので、彼の存在がいい影響を与えるようなポジションがあればと提案はさせていただいています。ただまだ本人から返事を聞いていないので」
引退試合という形で送り出すことに?「そうですね、それもできれば。試合に出るために彼は一生懸命、努力をしてきましたので。その夢はかなえてあげたいなと思います。ファームも残り試合は少ないので、調整がつけば発表させていただきます」
ともに過ごした選手からの言葉
甲子園で試合前の練習を行った選手のコメントもご紹介します。まず原口選手。横田選手が鳴尾浜に戻ってから、帽子をプレゼントしたり、一緒に写真を撮ったりして横田選手を笑顔にしてきました。逆に、ことし2月の安芸キャンプでは、大腸ガンの手術をした原口選手に動画でエールを送ったり。そこで横田選手は「一緒に1軍のお立ち台へ!」と言っていたんですよね。
原口選手は「朝、報道で知ったので驚きました。横田自身が出した結論なので、お疲れ様でしたという思いです。リハビリをしていて、いろんなことをしゃべりながらやっていましたけど、横田の一生懸命さは誰もが見習うもの、そういう目線で見ていました。何とか復帰して1軍でやりたいと思っていたので残念です。6年間は短かったと思いますけど、お疲れ様という気持ちです」と話しています。
会見場に花束を持って駆けつけた高山選手は「寂しいですね。報道で知ってビックリしました。ことしも何回かファームで練習するのを見て、いつか一緒にと思っていたので残念」とコメント。ただし「高山さんの顔を見たけど、涙は出なかったと言われました」という裏話も。横田選手本人が語っていた2016年の開幕戦について「横田が緊張して、子どもにあげる予定のサインボールでキャッチボールしていて、そういうところも横田らしい」と高山選手。そして「これからも変わらないので、ずっと仲よくしていきたい。お疲れ様です」という締めくくりでした。
同じく花束を手渡した北條選手は「僕の1人目の後輩だったので一緒にいる時間も長かったですし、いろんな思い出があります。横田も悔しかったと思いますけど、治ってリハビリしている姿には励まされました。寮ではご飯を食べている時とか、練習でも一緒にいて。そういう時間が長かったので、ずっと一緒にいたという印象があります。いろいろ教える部分もあって、自然に一緒でしたね。あいつの分まで頑張ります」と言っています。
確かに、一番年下の野手が担当すべき仕事はいろいろあって、それを北條選手が横田選手に教えていましたね。かなり心配そうだったような記憶があります。なんせ横田選手には『横田語録』として語り継がれるほど、数多くの“天然”エピソードが残っていますからねえ。
みんな野球ができることに感謝してほしい
今度は、ウエスタン・オリックス戦が行われたあとの鳴尾浜で話を聞いてきました。まず平田監督です。「きのう朝、横田と話をして、横田の決断を聞いて、やっぱりもう…顔を見れんかったね。スケールの大きい選手になるなと思って、すごく期待をしていただけにね、残念というか。横田が一番悔しいだろうけど」
1年目の夏、姫路で1試合3本塁打がありました。「ことし姫路へ行った時、ここで横田が同じところに3本ホームランを打ったなあと言ってたんだよ。中日戦だったな。最後はサイドスロー(矢地投手)から打ったのを今でも思い出すわ。走攻守そろった選手だったね。野球に真摯に取り組んで、今でも朝早くから準備してブルペンでバットを振っている姿を見ると…。ほんと若い選手たちは野球ができることに、ユニホームを着ていることに感謝してやらなあかんよ」
平田監督にとっても思い入れのある選手?「いやーもう入ってきた時にね、横田ですって九州弁のなまりで言って、翌日から扁桃腺が腫れて出遅れたけど(笑)。初めてフリーバッティングした時、スカウトの(田中)秀太に『これは楽しみや!』と。それだけのバッティングをしていたんでね。守備もよかったし、肩も強かったし、足も速かったし。西武の森(友哉)と一緒じゃないかな?1年目、森に負けるなよと言った覚えがあるもん」
横田選手がルーキーだった2014年8月3日、鳴尾浜で行われたウエスタン・オリックス戦で、近藤投手から“プロ1号”を放ちました。これがなんと満塁ホームラン!そして平田監督が今も記憶している1試合3発は8月31日の中日戦(姫路)です。9番センターでフル出場した横田選手は2回にレフトポール際に2号2ラン。4回は初球を打って3号2ランと西川投手から2打席連続です。6回は二ゴロで、7回が矢地投手からの4号2ラン!詳しくはこちらでご覧ください。→<横田慎太郎選手がリーグ11年ぶり、チーム17年ぶりの1試合3本塁打!>
それにしても逆方向への3発は圧巻でしたね!この年はファーム公式戦で計6本のホームランを放った横田選手ですが、そのあと9月7日の第5号ソロ(広島・横山投手)もレフトポール際、9月17日の第6号ソロ(広島・今村投手)もレフト。1号以外はすべて左へ打っていたんですね。あの放物線を忘れないようにします。
「悔しい」「残念」「寂しい」
中村ファーム守備走塁コーチは、横田選手が入団してから2年間はファームで、2016年から1軍で、ことしは再びファームで見ています。きのう22日の試合後、横田選手の…と言いかけたら「ゆうべ号泣しました」と先に中村コーチの言葉が。「1年目から担当だったんでね。親御さんから預かって、息子みたいに思っていましたよ」
思い出はありますか?「思い出しかない。すべてが思い出ですよ。僕も悔しい」。会見で横田選手自身から「ボールが見えないこと」が決断した大きな理由だと説明があったと告げると「それはもう辛かったと思いますよ。本人はものすごくしんどかったはず」と中村コーチ。本人の言葉通り、来年また頑張ろう!というふうに気持ちがついていかなかったんですね。
続いて、同い年の熊谷選手の話です。いつ知ったかと尋ねたら「僕も今朝起きて、携帯のニュースを見て…驚きました」という答え。「同い年ながら、野球に対する姿勢は誰よりしっかりしていると思っています。僕も見習っていかなきゃと。あれだけ目標に向かってやっているのは、すごいですね」。本当に仲がいい2人でした。じゃれ合っている姿をファンの方もよくご存じでしょう。
「残念だなという気持ちです。僕は2年間だけですけど、仲よくさせもらったので。寂しいですよ。ヨコがいなくなるのは」
あいつのために、という演出
やはり仲のいい板山選手も「朝、ニュース記事で知りました。絶対ウソだ!と思ったけど…」と目を伏せます。「前もっては何も聞いていなかったです。ことし僕は1軍に行けなかったので、ヨコが『来年は一緒に1軍でやりましょう』と言っていたぐらいで。1週間前ですか。僕らが遠征中ですね。きっと自分で決めたんでしょう。あいつの決めたことだから。あいつの性格なら今後、何をやっても成功すると思います。みんなに愛されるヤツなので」
それから「いつも朝、僕は早めに行って素振りするんですけど、横田はそれより早く行って素振りを終えて、くつろいでいるんです。そこでいろんな話をしましたね」と振り返る板山選手。横田選手の病気を知った時は「ひとりになって大泣きしました。知っていても、まだ誰にも言えない時期だったから」と明かします。その時から、板山選手は一緒に闘ってきたんですね。
2018年2月の安芸キャンプで、横田選手が初めてランチ特打を行った時のことを覚えていらっしゃいますか?流れるBGMの最後が、ゆずの『栄光の架橋』で、サビの部分でちょうど柵越えが出たこともあり、スタンドからは大きな拍手と歓声が起こりました。横田選手のユニホームを手に涙する方も。その様子はこちらでご覧いただけます。→<横田選手の打撃練習でファンを感動させた板山選手の演出とは?>
これは板山選手の選曲。「あれでヨコが打って、みんな感動してくれたらと思ってBGMを差し替えたんです。ヨコも泣きそうになったって言っていた」。これだけでは終わらず、2日後のランチ特打で今度は横田選手が2016年に使っていた登場曲、Superflyの『On Your Side』をオープニングに、締めは本人のリクエストでまた『栄光の架橋』を流し、キャンプ打ち上げ前日は朝のアップ時にZARDの『負けないで』を選んで演出しました。
横田選手が入院中にいつも聴いていたのが『負けないで』、『栄光の架橋』、あとはMr.Childrenの『終わりなき旅』だったとか。だから鳴尾浜の室内で練習する時も板山選手は、この3曲をはじめとする横田選手の好きな曲を集めて流していたそうです。
負けたのではなく、闘い抜いた結果です
その話を聞いた時、横田選手に「この3曲は以前から好きだったの?」と尋ねたら「いえ、前から好きだったわけじゃないです。病気をしてからです。入院中もずっと聴いていました」という答えで、また胸が詰まったのを覚えています。不安に押しつぶされそうな中、耳から入ってくる歌に救われ、励まされた日々だったのでしょう。
横田選手は2018年から『栄光の架橋』を登場曲にしています。その曲を、引退発表した22日の1軍・DeNA戦で、先発の望月投手が自身の登場曲に替えて流しました。試合後のお立ち台ではヒーローインタビューを受けた鳥谷選手が「横田」と名前を口にしました。板山選手が言う「みんなに愛される選手」の証明ですね。誰もがその勇姿を惜しみ、これから形を変えても一緒に戦いたいと思っています。
支えてくれた家族やトレーナー、球団の方々、選手、ファンの皆さんに、語りつくせないほど感謝の思いがあるという横田選手。だからこそ試合に出るところを見せたかった。でも応えられない自分がもどかしくて、辛くて、苦しかったのだと思います。昨年の春季キャンプで「自分に負けたり、あきらめたら終わり。自分に負けないよう頑張ります!」と言っていましたが、決して負けたわけじゃありません。
奇しくも同じ9月22日に引退会見を開いた広島の赤松選手が「病気後は、生きているだけでいいんだと気づいた」と話しました。それほどの病から戻ってきて、しかもユニホームを着て駆け回る姿まで見せてくれた横田選手に、こちらが感謝したいくらいですよね。24番も124番も絶対に忘れません。6年間お疲れ様でした。そして、これからもよろしくお願いします。
※9月26日に行われた横田選手の引退試合と、彼を支えた周囲の方々にいただいたコメントは、こちらの記事でご覧ください。→<阪神・横田慎太郎選手が教えてくれた、あきらめない心と神様の存在>
<掲載写真は筆者撮影>