NHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で急に出てきた親日都市シアトルと数奇な運命の氷川丸
NHKの朝ドラと米映画製作
NHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」は、朝ドラ史上初となる3人のヒロインで紡ぐ、三世代100年の家族の物語です。
日本でラジオ放送が始まった大正14年(1925年)3月22日に岡山市にある和菓子屋「たちばな」で生まれた「安子(キャスト:上白石萌音)」と、娘の「るい(深津絵里)」、孫の「ひなた(川栄李奈)」の三世代です。
物語の主軸としてジャズの都であるルイジアナ州のニューオリンズで生まれ育ったルイ・アームストロングが歌唱するジャズのスタンダードナンバー「明るい表通りで(オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート: On the Sunny Side of the Street)」が使われています。
「るい」という名前はルイ・アームストロングからとったという設定ですし、「ひなた」という名前も「明るい表通りで」の歌詞である「ひなたの道を歩けば、きっと人生は輝く」からきているという設定です。
現在は、孫の「ひなた」が主人公で、残り2週となっています。
しかし、これまでの朝ドラとは違い、ネタバレにならないように考えているためと思いますが、NHKは結末についての詳細な予告も、撮影の打ち上げのシーンも現時点まで公開していません。
3月28日の週は、平成13年(2001年)から平成15年(2003年)の話、最終週である4月4日の週は、平成15年(2003年)から令和7年(2025年)の話としかわかりません。
10日くらい前のヤフー個人の記事に、ドラマの最後は、米映画「ラストサムライ」とハリケーン「カトリーナ」の直前の話しになっているのではないかと書きました。
朝ドラは、ハリウッドの映画製作チームを職場の条映太秦映画村を案内するほど英会話が上達した「ひなた」が、幕末を舞台とした日米の文化の違いを描く「サムライ・ベースボール」の撮影のために侍役のオーデションに協力するところまで進んでいます
このドラマ設定は、平成15年(2003年)11月に、トム・クルーズと渡辺謙が主演の米映画「ラストサムライ」に重なります。
「ラストサムライ」では、日本でもロケが行われ、60年以上にわたって時代劇における“斬られ役”として活躍した福本清三さんも出演していますので、条映太秦映画村(東映京都撮影所の太秦映画村がモデル)に「ひなた」を誘ったベテラン斬られ役「虚無蔵(松重豊)」とも重なります。
ハリケーン「カトリーナ」は、平成17年(2005年)8月下旬の話ですので、ドラマに関係するにしても4月4日以降の最終週です。
ただ、ここへきてワシントン州シアトルがドラマに関係する雰囲気になってきました。
シアトルと平川唯一
3月24日の放送で、アメリカへ「安子」を探しにいった「るい」が、「安子に関する消息は、一緒に渡米したロバート・ローズウッド(村雨辰剛)がシアトル出身であったことしかわからなかった」というセリフがあり、初めてシアトルが出てきました。
「カムカムエヴリバディ」のタイトルは、昭和21年(1946年)2月1日から26年(1951年)2月9日まで放送され、「安子」と「るい」が聞いて育ったNHKのラジオ番組『英語会話』(別名カムカム英語)からきています。
シアトルは、「安子」と「るい」が一緒に聞いていた「カムカム英語」のパーソナリティの平川唯一(さだまさし)が出稼ぎの父を兄とともに追って渡米し、12年間も働きながら勉強し、ワシントン大学まで卒業した大都市です。
「ひなた」が英会話に身を入れて取り組み、マスターするきっかけも、生まれ育った岡山での新盆の日に、亡霊として戻ってきた平川唯一です。
ロバートとともにシアトルに渡った「安子」が、思い出のカムカム英語の平川唯一さんの関係者(娘や姪など)と仲良くなることは十分考えられる設定です。
事実として、平川唯一さんの長男・壽美雄さんは三菱銀行シアトル支店長を務めたことがありますし、二女の萬里子さんは大野メリーとしてシアトルで歌舞伎アカデミーを創設し、日本の伝統芸能を紹介していますので、平川唯一さんとシアトルは、若い時に勉学に励んだ都市以上のつながりがあります。
今週から、米映画「サムライ・ベースボール」のキャスティングディレクターで日系のアメリカ人、アニー平川(森山良子)が出演していますが、平川唯一さんの子供、あるいは兄の子供(姪)で、「安子」の居所を知っているという設定は十分考えられます。
あるいは、アニー平川が、「安子」本人という可能性もあります。
ちなみに、森山良子の父は、ジャズミュージシャンでトランぺッターであった森山久(ルイ・アームストロング来日時に世話をした)、息子は主題歌の「アルデバラン(歌手:AI)」を作詞作曲した森山直太朗ですので、このドラマは、森山家の三世代とも関係があります。
なぜ「シアトル」
ワシントン州のシアトルは、明治26年(1893年)にグレート・ノーザン鉄道がシアトルまでのびた、全米の鉄道網と結ばれたことから、東洋貿易の中継地点として発展を始めます。
明治29年(1896年)、日本郵船はアメリカのグレート・ノーザン鉄道と提携し、グレート・ノーザン鉄道の太平洋側ターミナルのシアトルとの間に北米航路を開設します。
東洋汽船のサンフランシスコ航路、大阪商船のタコマ航路とならぶ日本の北米航路の誕生ですが、シアトル航路は所要時間が短いことから人気を博し、これが小さな港町だったシアトルを急速に発展させていきます。
「グレート・ノーザン鉄道を父とし、日本郵船を母とする」という言葉があるほど、日本と結びつきが強い都市で、親日家が多く、太平洋戦争が始まる直前、最後の引き揚げ船はシアトル航路で活躍した「氷川丸」です。
日本郵船が政府の支援を受けて作った豪華な優秀船である「氷川丸」は、日米間が険悪となった昭和16年(1941年)10月に政府徴用の引き揚げ船として北米に向かい、シアトルから368名の引揚者をのせ横浜に戻っています。
アメリカからの最後の引き揚げ船「氷川丸」の海上気象報告によると、10月20日16時5分に横浜を出発した氷川丸は、カナダの晩香坡(バンクーバー)に11月1日4時0分に到着、12時間30分後の16時30分にアメリカの沙市(シアトル)に向けて出港、シアトルには2日の1時40分に到着しています(図1)。
シアトルから最後となった引揚者368名を乗せて出港したのが4日の18時50分とシアトルには65時間の滞在でした。
そして、横浜への帰着が18日19時55分となっていますが、太平洋を往復する間、1日4回(6時、12時、18時、24時)の海上気象観測(風向、風力、気圧、温度、雲量と雲の種類、天気、視程、海水温度、波浪の向きと階級、ウネリの向きと階級)、及び、1日1回(12時頃)の海流観測(海流の方向と速度)が行われています(図2)。
太平洋戦争中の「氷川丸」は、病院船に改造され、南方を転戦しますが、なんとか生き残って終戦を迎えます。
戦後の氷川丸は、昭和20年(1945年)10月から在外邦人の引き揚げなどに使われていましたが、昭和27年(1952年)7月から氷川丸は、シアトルとの間を不定期の準客船として運航しています。
これが、戦後初めてのアメリカに向かった日本船で、やはり、最初の目的地はシアトルでした。
「安子」が渡米時に乗船した船
NHKのカムカム英語の放送が終わった昭和26年(1951年)2月9日以降、目的を失った「安子」が、ロバートの英語教室を手伝うなどで接近し、誤解から「るい」に「I hate you(私はあなたを憎んでいる)」といわれる残酷な結末でアメリカへ渡っています。
このときに乗った船が、戦後初めてアメリカへ向かった日本船「氷川丸」としても、無理のない設定です。
そして、昭和28年(1953年)7月28日に横浜港から出航した「氷川丸」の乗客192名の中には、フルブライト交換留学生94名が含まれていました。
これは、アメリカのフルブライト上院議員が「人物交流を通じて他国との相互理解を深めることが平和につながる」として作った奨学金制度で、日本ではアメリカと昭和26年(1951年)に二国間の教育交換計画に関する覚え書きが交わされたことによって始まったものです。
「安子」が、この「氷川丸」に乗船したとすると、船旅の間に知り合ったフルブライト留学生の厳しい生活(少し前まで敵国であったアメリカでの厳しい目がある中での生活)に、甘い和菓子で応援したことは十分考えられる設定です。
戦後の日本の発展に多大な貢献をするフルブライト留学生達が、世話になった「安子」のピンチを助けるという設定もありえます。
因みに、「氷川丸」は昭和35年(1960年)に引退して横浜の山下公園桟橋に係留されて、博物館兼高級レストラン等に使われていますが、引退までに2500名ものフルブライト留学生を運んでいます。
「氷川丸」の海上気象報告
明治政府は、船舶からの気象観測を集めて海上気象の調査をしようと、諸官庁や民間が保有する近代的な船(西洋形船)に気象の観測を行わせ、これを年に2回、海軍省に報告せよという内容の太政官通達を明治7年(1874年)にだしています。
これは、勝海舟が海軍卿(海軍大臣)のときの通達ですが、以後、船舶の気象観測データが海軍に集められています。
この業務は、中央気象台(気象庁の前身)に引き継がれ、さらには、神戸の海洋気象台(現在の神戸地方気象台)に引き継がれています。
このため、神戸海洋気象台には膨大な船舶の気象観測データ等が集まり、神戸空襲の時は、疎開で焼失を免れています。
これらの観測データは、「神戸コレクション」と呼ばれ、数値化されています(図3)。
「神戸コレクション」には、「氷川丸」が建造されてから引退するまでの31年間のうち21年、のべ486枚の海上気象報告が残されています。
「氷川丸」が多くの人や物を運び、歴史を作っていますが、乗組員が観測した記録も、私たちの将来の歴史を作る貴重な財産としてよみがえっているのです。
気候問題に貢献する「神戸コレクション」
気候変動が人類にとって重大な問題と認識されるようになり、長期間の観測資料が必要とされ、特に海上の観測資料が求められるようになってきました。
海上の気象は陸上のように短い時間で変動しないために長期間の変動を見るのに適していることや、気候変動と海の関係が注目されるようになってきたからですが、海上の観測値は陸上に比べて非常に少ないという問題がありました。
船舶からの観測データは、海上の予報を出す機関に送られたとしても、使い捨ての記録ということからほとんどの国では長期保存しておらず、長期保存を試みていた国でも、長い間の災害や戦争、社会の変革などで失われています。
しかし、神戸海洋気象台だけは、いろいろな幸運が重なった結果、20世紀前半の資料がまとまって保管されていたため、気候変動や海洋の研究者の間では「神戸コレクション」として有名でした。
世界的に広く利用されている「統合海洋気象データセット(COADS)」では、「神戸コレクション」の観測データが重要な割合を占めています(図4)。
特に、大正7年(1918年)のデータは世界中で5万通しかなかったものが、「神戸コレクション」が加わったことで14万通に増えるなど、第一次大戦による欧州諸国の海上気象資料不足を補っています。
「カムカムエヴリバディ」は、オリジナルドラマですが、細かいところまで実際に起きた出来事を忠実に踏まえてのストーリー展開です。
クライマックスに向けて、クリスマスや米映画「ラストサムライ」、ハリケーン「カトリーナ」とのからみ、そしてシアトルとの関係など、あと2週。
ドラマ展開に目が離せません。
私の拙い推測を覆す展開になるかもしれませんが、それはそれとして楽しみです。
図1、図2、図3、図4の出典:饒村曜(平成22年(2010年))、海洋気象台と神戸コレクション、成山堂書店。