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冬型の気圧配置で今冬一番の寒気が南下 冬将軍という言葉はナポレオン以降、朝鮮戦争まで戦時の報道で使用

饒村曜気象予報士
今冬一番の寒気が南下中の地上天気図(11月18日15時)

今冬一番の寒気が南下

 令和6年11月18日は、今冬一番の寒気が南下し、西高東低の冬型の気圧配置となっています(タイトル画像)。

 日本海には、寒気の南下を示す筋状の雲がみられますが、筋状の雲が大陸から少し離れています(離岸距離が大きい)ので、今冬一番といっても一時的な(週前半の)寒気の南下です。

 今冬は、稚内と旭川、網走で10月19日に初雪があり、本州でも11月7日に青森と盛岡で初雪がありましたが、その後は暖気が入って初雪の便りが聞かれなくなりました。

 一般的に、上空約1500メートルが-6度以下であれば、地上では雪が降と言われていますが、その-6度が18日夜から19日朝にかけて北陸まで南下してきました(図1)。

図1 令和6年(2024年)11月18日夜の上空約1500メートルの気温分布
図1 令和6年(2024年)11月18日夜の上空約1500メートルの気温分布

 11月18日の夕方に秋田で初雪を観測しましたが、夜になると、山形、新潟、長野、福島と、北陸から東北で初雪の観測が相次いでいます。

 平年より気温が高い日が続いていた東京でも、あと少しで最高気温が25度以上の夏日になるところだった11月17日から、1日半で15度も気温が下がっています(図2)。

図2 東京の気温の推移(11月19日以降はコンピュータによる予想)
図2 東京の気温の推移(11月19日以降はコンピュータによる予想)

 そして、11月19日から20日は、平年を大きく下回る寒い日となる予想です。

 今冬初の「冬将軍」の登場といえるでしょう。

「冬将軍」という言葉

 本格的な寒さがやってくると、「冬将軍の到来です」という言葉が、報道機関等でよく使われます。これは、「北の方から厳しい寒さがやってきますよ」ということを、人に例えているのですが、洒落ではなく歴史的な新聞記事が語源です。

 19世紀初め頃、数々の戦いに勝ってヨーロッパを支配するに至ったフランスのナポレオンは、敵対していたイギリスを孤立させるために大陸封鎖令を出しました。しかし、これに反発したロシアは、ナポレオンに従わずにイギリスヘの穀物輸出を続けました。

 そこで、江戸時代の文化9年(1812年)5月にナポレオンは60万人ともいわれる大陸軍(うちフランス軍30~40万人)を率いてロシア遠征に向かいました。対するロシア軍は10数万人です。

 人数の差は大きく、ナポレオンは9月には首都モスクワを占領します。開戦当時のロシア総司令官バルクライは、さらに追撃を進めるナポレオン軍から自軍を撤退させる際に、火を放つという焦土戦術をとり、ナポレオン軍がロシアの都市等より物資の補給ができない状態にします。

 しかし、ロシア国内での批判が高まって失脚し、8月20日にナポレオンに敗れて左遷された過去を持つクトゥーゾフが総司令官となります。

 汚名回復を期したクトゥーゾフ将軍もナポレオン軍に押され、焦土戦術を継続し、長期戦に持ち込みました。短期決戦を予想していたフランス軍は冬支度をしておらず、防寒着等の調達もできない状態でしたので、モスクワ占領以降は寒さに苦しみ、ナポレオン自身も風邪をこじらせています。このため、10月に退去したときは、60万の軍隊はほぼ全滅していました。

 この年のモスクワは記録的な寒さであるとされ、「ナポレオンも冬の寒さには敵わなかった」ということになりました。この遠征失敗を記事にしたイギリス人の新聞記者が「general frost(厳寒の将軍、霜将軍)」と表現したことが、冬将軍の語源といわれています。

 しかし、そもそも、10月から11月の寒さは、記録的な寒さであっても、真冬の寒さには及びません。真冬でも戦いをしたことがあるナポレオンにとって、想定外の寒さであったかどうか疑問視する人もいます。

 文化9年(1812年)にヨーロッパ東部で冬の寒波が来たのは11月7日で時期的には遅く、そのあと、寒さが緩んでいます。11月26日~29日のベレジナ河畔の戦いをへて、ロシアから逃れた大陸軍は2~3万といわれていますが、ベレジナ川は凍結しておらず、架橋はされましたが多くの兵は渡ることができず、多数が水中で死亡しています。この時は、寒かった方がナポレオン側に有利だったのです。

 失った兵力の多くは食料不足による脱走兵ともいわれていますが、ナポレオンにとっても、その同盟国にとっても、「ロシア軍の食料を入手できなくさせる焦土作戦で負けた」ではなく、「ロシアではなく冬将軍という自然現象で負けた」というほうが、自分に有利な説明であったことから、ことさら、寒さが強調されたのではないかと思います。

 また、その後、冬に行われた戦争の時、「わが軍が負けたのは冬将軍のせい」「敵軍だけでなく、冬将軍にも勝った強い我が軍」ということで、「冬将軍」という言葉が使われたのではないかと思います。

「冬将軍」が使われたのは日清・日露戦争から

 日本で「冬将軍」という言葉がいつから使われたのか、はっきりしていませんが、朝日新聞クロスサーチを使い、朝日新聞で「冬将軍」を検索すると興味深いことが出てきます。

 それによると、朝日新聞での初登場は、明治28年(1895年)4月12日の朝刊です。

 日清戦争のさなか、陸軍の軍医部は陸軍に凍傷対策を指示していたので、ナポレオン(奈翁)のように冬将軍に負けなかったという記事です。

引用:明治28年(1895年)4月12日 朝日新聞朝刊

奈翁の雄豪を以て露国に敗れたるハ何ぞや 曰く冬将軍の威虐に敵する能はざれバなり 今天れ満州朔北の野三冬の厳寒決して露国に下らず而して我軍の悠然之れに処して其虐を受けず…

 次に登場するのは、10年後の日露戦争のときの記事で、ロシア軍と冬将軍の両方と戦っているという記事です。

引用:明治38年(1905年)1月13日 朝日新聞朝刊

冬営の近上 右翼軍付 小西海南

沙河の左岸に滞陣して其右岸の敵と相対時し時々緩徐なる鉄砲火を交換し 一方に厳冬将軍と戦ひつつある我出征兵士の近状を実見せんとし此程各軍を巡回したり…。

 大正時代は「冬将軍」の記事はなく、再び「冬将軍」が登場するのは、第二次世界大戦でのドイツによるソビエトへの侵攻の時です。

引用:昭和16年(1941年)9月16日 朝日新聞朝刊

冬季作戦の対策(上)

独逸 計算済みの「冬将軍」 ナポレオンの轍は踏まず

敵露では例によって「冬季将軍」を救ひの神のごとく期待してゐるが、やがてこの期待は失望に終わるであらう。ましてドイツ軍は冬の訪れる前に赤軍に対して根本的な軍事的判決を下し得ることも予想し得るのである。

独ソ戦が往々ナポレオン遠征に比されるが、これも誤りで、ナポレオンが広報連絡を無視して失敗したのに対し、現在の独軍は、後方兵站連絡網を確保し、かつ十分な準備をもって臨んでゐる。…。

 ドイツ軍は、ナポレオンのように冬将軍には負けないということで始まった戦いでしたが、結果的には「冬将軍」に負けています。

 太平洋戦争のときは主戦場が南方であったことから「冬将軍」の記事はなく、再度の登場は朝鮮戦争の時です。

引用:昭和26年(1951年)11月1日 朝日新聞夕刊

冬将軍は国連軍の味方 共産兵士の士気とみに低下 休戦会議…。

 「冬将軍」が戦争とは関係なく、現在と同様な使い方になった最初は、朝日新聞では、昭和30年(1955年)10月9日の朝刊ではないかと思われます。その見出しは「冬将軍ちらり、はや木枯らし一号」でした。

 そして、その約2か月後の12月18日の朝日新聞朝刊では、「冬将軍登場 北国は吹雪」となっており、以後「冬将軍」という言葉が冬の季語のように使われています(図3)。

図2 地上天気図(昭和30年(1955年)12月18日9時)
図2 地上天気図(昭和30年(1955年)12月18日9時)

 この時の天気図を見ると、中国大陸には気象観測値が記入されていません。

 建国したばかりの中華人民共和国とは、まだ気象資料の交換が行われていませんので、いわば、空白の天気図で「冬将軍」を探していた時代の話です。

 朝日新聞だけでなく、他の新聞でも、昭和30年(1955年)以降、「冬将軍」という言葉が使われていますので、平和な時代になったことで、人々が戦争とは切り離し、「冬将軍」を多用するようになったと思われます。

タイトル画像、図1の出典:ウェザーマップ提供。

図2の出典:ウェザーマップ提供資料をもとに、筆者作成。

図3の出典:原典は気象庁「天気図」、加工は国立情報学研究所「デジタル台風」。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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