10代の投票率は3分の1以下。主権者教育と政治報道を抜本的に見直さないと若者の投票率は上がらない
「選挙啓発」の限界
2019年7月21日に投開票された、参議院選挙。
全体の投票率は48.8%と、前回2016年よりも6ポイント下がり、全体的に盛り上がりに欠ける選挙となったが、18歳と19歳の投票率は総務省の速報値で31.33%になった。前回46.78%よりも15.45ポイント下がる結果となった。
年齢別では、18歳が34.68%、19歳が28.05%。
もちろん、前回2016年の参議院選挙は18歳選挙権が実現した初めての国政選挙であり、その反動が出るのは仕方ないが、それでも、2017年衆院選と比べても、9.16ポイントの低下、それまであまり「主権者教育」を受けていない(前回までの)20代よりも低い結果となっている。
出典:総務省
若者の投票率を上げる手段として、ネット投票に対する“過度な”期待もあるが、唯一国政選挙で導入しているエストニアの事例を見ても、特段投票率向上に貢献しているわけではない。大抵は、海外に行っているなど、何かしらの理由で今まで選挙に行っていた人が投票しにくい時の代替手段として機能している。
その意味では、在外投票や過疎地域で投票所が少なくなっている場所には一定の効果をもたらすと考えられるが、そもそも、それ以外の国はネット投票なしで高い投票率を実現しており、「投票コスト」以外の理由が大きいと考えるのが妥当だ。
ただ、住民票を移していない人に対する手続き、不在者投票はわざわざ書類を取り寄せなければならず、これは早急に改善すべきだろう。
また、選挙のたびに、様々な形で「選挙に行こう!」といった啓発や「選挙割」などの工夫がされているが、そうした一時的な対策だけではやはり限界があることが明らかになったとも言える。
SNSでは盛り上がったように感じるかもしれないが、想像以上にSNSは分散化されており、あくまで一部の「政治サークル」で盛り上がっているに過ぎない。
ある学生団体の調査では、同じ大学の学生7割が投票日さえ知らないという結果が発表されている。(投票日「知らない」7割 NPOが長崎大で学生131人調査)
選挙報道は約3割減
こうした現状を改善するためには、主権者教育と政治報道の中身を抜本的に見直さなければならないが、今回は選挙報道の量自体も減っている。
朝日新聞の報道によると、前回から約3割減、民放だけなら約4割減っているという。
そして度々言及されているように、日本のテレビ報道は、公平性の観点から、各党の代表者が順に政策を説明する「討論会」にとどまっており、各論点について専門家を交えて議論する機会が決定的に乏しい。
また、選挙期間以外の政治報道も、過度にスキャンダル報道や政治的パフォーマンスに寄っており、真面目な国会の議論や政治的な議論が報道されることも少ない。
その結果、野党が提案を行い、付帯決議を盛り込んでも、あまり報道されず、「野党は批判ばかり」という誤解が広がっている。
政治不信は高まる一方で、「政府」や「政治家」への信用度が世界の中で最も低い国の一つとなっている。
もちろん、政治家や政府がスキャンダルを起こしていること自体は否定しないが、過度に政治不信を煽っていないか、政治が持つ価値や役割をきちんと伝えているのか、一度自らの報道を見直すべきだろう。
出典:「日本国民の政治家への信頼度はなぜ世界最低レベルなのか」(ダイヤモンドオンライン・本川裕)
ちなみに、テレビ報道はやけに「公平性」を重視しているが、選挙報道は自由であり、どこかの局が自粛せずにもっと自由に報道を始めれば、変わっていくのではないだろうか。(公選法よりも放送法4条=政治的公平性を規定の方を懸念しているかもしれないが)
「子ども扱い」する日本の主権者教育
そして何より、2016年以降「主権者教育」が本格的に始まったにもかかわらず、10代の投票率が大幅に下がった(以前の20代よりも低い)という事実は大きい。
現状の「主権者教育」が抱える問題は多いが、最大の問題は、“使える”ものになっていない点だ。
文部科学省が定める主権者教育の目的は、「単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を身に付けさせること」、簡単にいうと、自ら社会の問題を考え、行動していく主権者を育成することだ。
しかし実際には、問題解決の手段として、「選挙」に偏り過ぎており、多くは「仕組み」にとどまる。過去に成立した法案がどういう問題を解決するものなのかも教えられない。
もちろん、実際の法案成立過程や各党の違い、政治家が日々何をしているかも、教えられることはほとんどない。
模擬投票を実施している学校もあるが、多くは架空の政党・候補者であり、せっかく本物の選挙があるのに、わざわざ架空の題材を作っている。(下記で述べるような制約がある中で、その努力自体は褒められるべきだが、実にもったいない)
ドイツなどの国々では、小学生の頃から、問題解決の手段として、「市役所への連絡方法」、「メディアへの連絡方法」、「デモの手順」など、段階にあった方法を教えられる。
ノルウェーでは、中学校の社会科などの授業の一環で、子どもたちが各党の「選挙小屋」を回り、候補者やその支援者に直接質問し、各党の違いなどをまとめる。
そして、選挙があれば、本物の政治家(候補者や青年部)を学校に招いて、討論会を行っており、本物の政党・候補者で模擬投票を行う。
日本では討論会どころか、本物の政治家に会う機会もほとんどない。
「よくわからない人たち」もしくは(スキャンダル報道などによって)「イメージの悪い人たち」がやっているものに対して、急に「興味を持て」と言われても、普通に考えて無理だろう。
このように、海外の主権者教育(政治教育)では現実社会で“使える”ものになっているが、日本ではそうなっていない。(他の教科も同様かもしれないが)
この背景の一つには、「政治的中立性」に関する考え方の違いがある。
文科省は2015年10月の主権者教育に関する通知(高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について)で、「議会制民主主義など民主主義の意義、政策形成の仕組みや選挙の仕組みなどの政治や選挙の理解に加えて現実の具体的な政治的事象も取り扱い、・・・・具体的かつ実践的な指導を行うこと」を明記している。
しかし一方で、「学校は、・・・・政治的中立性を確保することが求められるとともに、教員については・・・・公正中立な立場が求められており、・・・・法令に基づく制限などがあることに留意する」と「政治的中立」を強調し、「教員は個人的な主義主張を述べることは避け、公正かつ中立な立場で生徒を指導すること」としている。
本来、誰もが政治的に「中立」であることは難しい。しかし現状の教育現場では、もし「政治的中立」から逸脱すれば、教育委員会や政治家から指摘される。
そのため、この「政治的中立」を守るために具体的な事象を扱わない、先生は意見を述べない、のが正解(現実)になっている。
結果的に、上記で述べたように制度などの話にとどまり、ほとんど“使える”ものになっていない。
他方、ドイツなどは、多様な意見を扱うことで「政治的中立」を担保しており、討論会などでは、全ての政党を招く(イデオロギーによる「拒否」は禁じているが、先方が自主的に欠席する場合など、出席は必須ではない)。
ドイツの政治教育の指針になっている「ボイテルスバッハ・コンセンサス」では、意見が分かれる現実の政治問題を扱う際には、対立する様々な考え方を取り上げて生徒に考えさせ、その上で生徒一人ひとりの意見を尊重すること。これが守られていれば問題ないとされている。
逆に言うと、意見が分かれる問題について、その真ん中の立場を探したり、そもそもそういう難しい問題を扱わないというのでは政治教育は成り立たないと考えられているということでもある。
ただ日本の文科省や政治家が懸念しているように、先生が特定のイデオロギーに「誘導」することはあり得るかもしれない。
そうした懸念がないのか、筆者がドイツ視察に訪れた際に、高校の校長先生に聞いたところ、(校長が答える前に!)生徒が手を挙げて、下記のように答えたことが強く印象に残っている。
「先生が特定の方向(思想)に誘導しようとしたら、他の先生や親に相談するし、自分たちで判断できる」(ドイツの高校生)
逆に言えば、日本は「生徒は自分で判断できないから、意見が分かれるものは遠ざけよう」という考えが根底にあるように思える。(典型的なパターナリズムだ)
自民党公約は逆行
しかし残念ながら、こうした「問題」があるにもかかわらず、自民党はこの「政治的中立」をより強化しようとしている。
2019年参院選では、「教育の政治的中立性の徹底的な確立」として、下記の公約が掲げられている。
ただでさえ日本は政治をタブー視する風潮が強く、「無色透明な」主権者教育の現場をさらに萎縮させたいのか、それははたして「主権者教育」なのか甚だ疑問である。
民主主義は実践するもの
政治報道と主権者教育の問題点を見てきたが、何より重要なのは、民主主義というのは「知識の獲得」ではなく、「実践」するものであるということだ。
つまり、いくら教室で具体的な政治事象を学ぼうが、「民主主義」を経験しなければ、その意義や価値を実感することはできず、そうした場に参加しようと思えない。
筆者が何度も書いているように、日本の若者の「政治的関心」は高い一方で、「自分が参加することで変えられる」と思っていない現状を見ると、こちらの方が重要だろう。
(参考:徐々に広がりつつある「投票」以外の若者の政治参加。政策提言で社会を変える方法)
民主主義の実践とは何か?
例えば、スウェーデンやドイツなどでは、生徒が先生・校長らと対等に学校の校則や授業内容、給食の内容などについて話し合い、意思決定に関わる機会が確保されている。
日本では、そもそも学校が民主主義になっておらず(学校だけではなく多くの会社や家庭もだが)、学校内のルールである校則なども基本的には上から決められており、遵守することばかりが重視されている。
根本的には、こうしたパターナリズム的な考えをやめて、子ども・若者をきちんと社会の一員として対等に意見を尊重していく。
そうした小さな積み重ねが、結果的に投票率向上にも繋がっていくだろう。
選挙前だけ「投票に行こう!」と呼びかける、小手先の対処法ではもう限界だ。
ずっと「子ども扱い」しておいて、有権者になって選挙に行かなかったら「最近の若者はー」と嘆く。そうした態度はあまりに無責任である。
主権者教育や政治報道だけではなく、社会全体も変わっていかなければならない。
「民主主義の危機」とも言える、低投票率となった今回の参院選を大きな転換点とすべきだ。