Yahoo!ニュース

増殖する無差別殺傷の本当のリスク――ロシアの文豪が語ったこと

六辻彰二国際政治学者
本郷の東大前で発生した事件を受けて現場に駆け付けた警官(2022.1.15)(写真:ロイター/アフロ)
  • 無差別殺傷の連鎖は社会全体にコストとリスクをもたらす。
  • とりわけ深刻なのは、無差別殺傷の模倣犯の続出が、「惨めな日常をひっくり返したい」と思う者の増加を示していることである。
  • それはいわば「日常と非日常の逆転」だが、この願望は戦争を賛美する精神性に通じる。

 京王線ジョーカー事件のような「日常がうまくいかない人」の無差別殺傷はいまや珍しくないが、これは社会全体にとって大きなリスクとなる。それが戦争を求める精神性に通じるからだ。

無差別殺傷のコストとリスク

 これまで日本では「勉強がうまくいかない」「仕事に行き詰まった」という人の自殺は多かったが、最近は攻撃性を外に向ける事件が増えてきた。

 筆者の専門に引き寄せていうと、漠然とした理由づけしかない無差別殺傷事件の多くは、政治的・宗教的イデオロギーに基づく暴力としてのテロとは、厳密には区別される。しかし、社会全体のコストを増やす点で、無差別殺傷はテロとほぼ同じ効果をもつ。

NY世界貿易センタービルに突っ込んだ旅客機(2001.9.11)
NY世界貿易センタービルに突っ込んだ旅客機(2001.9.11)写真:ロイター/アフロ

 外出が不安な人が増える、他人が信用できなくなるといった相互不信の連鎖だけでなく、例えば鉄道会社や教育機関が警戒を強化するなら、それだけで予算は増える。必要だからとガソリンを購入する人も、今後手続きがより面倒になるかもしれない。それはちょうど9.11後のアメリカをはじめ多くの国が直面してきた問題とほぼ同じだ。

 もっとも、これらは表層的なコストであって、より深刻なリスクは別にある。

 人の集まる場でいきなり凶行に及び、当たり前の日常をひっくり返すことは、いわば非日常を作り出すことだ。京王線ジョーカー事件などに感化され、模倣犯が次々と増殖する状況は、こうした志向の者が増えていることを示す。

 それは社会全体にとって危険なサインでもある。「日常と非日常の逆転」の欲求が広がることは、戦争を賛美する思潮とリンクしやすいからだ

戦争擁護論のアナロジー

 非日常的な状況は、日常でうまくいかない者に、主役になれるチャンスを与える。この点を重視して、戦争に大きな価値を見出した人間の一人にドストエフスキーがいる。

 『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などで知られるドストエフスキーは19世紀ロシアを代表する文豪の一人だが、『作家の日記』では平和の害悪について語り、戦争の効用を高らかに叫んでいる。

そうだ!流された血が偉大なのだ。我々の時代には戦争が必要である。

ドストエフスキー『作家の日記』

 その議論をごく簡単に解説すると、平和が続けば金と権力が支配する世の中になる。そこでは偽善と無恥がはびこり、人が名誉を重んじる心を殺して媚びへつらうようになる結果、外面のいい者が出世し、そうでない不器用者の尊厳は常に踏み躙られる。要するに人間が野卑になる。

 ところが、戦争では日常のなかで守られるルールや決まりの一切が取り払われる。そこでは、普段は見くびられている者にも尊厳を取り戻すチャンスが与えられる。これによって堕落していた「魂は癒され」、支配する者とされる者に別れていた民族が一体性を回復できるというのだ。

 ドストエフスキーが『作家の日記』を著したのはロシア帝政末の動揺時代で、貴族や地主といった特権階級が幅を利かせる一方、庶民は困窮を極め、暗殺といったテロも横行していた。こうした時代背景のもとで登場したドストエフスキーの戦争擁護論がおよそ合理的理性とかけ離れた議論であることは疑いなく、抑圧によって生じる一種の情念であり、社会への怨嗟でさえある。

2019年の映画「ジョーカー」撮影中の主演ホアキン・フェニックス。ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞するなど高い評価を集めた作品だが、京王線での事件を受け、日本では地上波での放送が難しくなった。
2019年の映画「ジョーカー」撮影中の主演ホアキン・フェニックス。ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞するなど高い評価を集めた作品だが、京王線での事件を受け、日本では地上波での放送が難しくなった。写真:Splash/アフロ

 しかし、ドストエフスキーの叫びは当時トルコとの戦争に直面していたロシア民衆から熱狂的に支持された。そこには血を流すという非日常性が日常的に惨めな自分を解放するという倒錯があった。

空疎な優越感を求める者

 ドストエフスキーの戦争擁護論は「映画のなかのジョーカーが平気で人をやっつけるのに憧れていた」と供述した京王線ジョーカーなど無差別殺傷犯の身勝手な言い分に通じるところがある。

 彼らがドストエフスキーを読んでいたかは問題ではない(おそらく読んでいないだろうが)。ここで重要なことは、生命の危険にさらされた時、年収や学歴はもちろん法律や道徳にも何の意味もなくなり、それらがいかに脆いかを浮き彫りにすることで、自分の存在を確認しようとする精神性で両者は共通するということだ。

 もちろん、ドストエフスキーの念頭にあった戦争と無差別殺傷には違いもある。その最大の違いは、戦争は一人では始められないが、無差別殺傷は一人でも始められることだ。

バイデン大統領就任式を目前に抗議デモに集まったオレゴン州のトランプ支持者(2021.1.17)
バイデン大統領就任式を目前に抗議デモに集まったオレゴン州のトランプ支持者(2021.1.17)写真:ロイター/アフロ

 戦争を起こすことはできなくとも、一人で日常をひっくり返し、右往左往する人を眺めることは優越感を高め、あたかも自分がこの世の主権者のような倒錯を与えるのかもしれない。

 いうまでもなく、それは現実には虚しい優越感で、自己満足に過ぎない。しかし、それは恐らく彼らには問題ではない。合理的理性と無縁の世界に生きる無差別殺傷犯は、現実とかけ離れた夢想にとりつかれたテロリストや陰謀論者と同じであり、その精神性は武器を見せびらかせながら「内戦」を叫ぶトランプ支持の極右過激派にも通じる。

 だとすれば、相次ぐ無差別殺傷は、いわば「戦争ごっこ」を夢想する者が増殖していることを示す。その主張がたとえ身勝手なものであったとしても、手段にかかわらず日常を転換したいと望む者が増えていることこそ、無差別殺傷の連鎖が示す最大の社会的リスクといえるだろう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

六辻彰二の最近の記事