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なぜ日本では「世の中への報復」がテロリストではなく通り魔を生むか

六辻彰二国際政治学者
川崎20人殺傷事件の現場で犠牲者を悼む人々(2019.5.29)(写真:ロイター/アフロ)
  • 人生がうまくいかないと感じる者が世の中に報復しようとするとき、海外ではテロリストになることが多いが、日本では通り魔が生まれやすい
  • 多くの国と異なり、日本では破壊衝動にかられる者が吸い寄せられる場がほとんどないことが、この差を生む
  • 孤立した通り魔の犯罪を予測・警戒することは、テロ対策とは異なる難しさを抱えている

 世の中に一方的に報復感情を抱く通り魔的な犯罪が多発するなか、個人や家族が孤立しやすい社会のあり方がフォーカスされやすいが、これは諸外国と異なり「なぜ日本ではテロが起こりにくいか」の裏返しでもある。

「社会への破壊衝動=通り魔」は多くない

 5月28日に発生した川崎20人殺傷事件の衝撃が記憶に新しい間に発生した練馬での事件で、息子を殺害したとして逮捕された元農水省事務次官の熊澤容疑者は「息子が川崎の事件のようなことを引き起こすのではないかと危惧した」という趣旨の発言をしているという。

 それほどに日本では、低所得、ひきこもり、メンタルな問題などで社会に適応するのが難しい者が世の中に一方的に憎悪を募らせた結果とみられる通り魔的な犯罪が珍しくなくなった。

 ただし、いまの世界全体を見渡せば、このパターンはむしろ少数派といえる。多くの国では社会への破壊衝動がテロリストを生むことの方が目立つからだ。

テロリストと通り魔

 「テロリストも通り魔も同じ」という見方もできるだろう。実際、テロリストと通り魔はいずれも社会を敵視し、無差別に他人を殺傷する点では共通する。ただし、両者は厳密には別のものだ。

 テロリストは敵対する者を脅し、政治的、宗教的なメッセージを発する手段として暴力を用いる。つまり、どんな歪んだ形であっても、そこには何らかの主義主張やイデオロギーがある。

 そのため、たとえ人生がうまくいっていないという個人的な動機が根本的な原因だったとしても、「自分の恨みを晴らす」とは言わず、何らかのあるべき社会像のための戦いと言おうとする。イスラーム過激派など宗教色の強いものだけでなく、非白人から白人の世界を取り戻すことを大義とする白人右翼テロもこの点では同じだ。

 これに対して、ほとんどの通り魔は、世の中に対する漠然とした不満や敵意があっても、それを言語化しない(できない)。第三者に自分の正しさを発信しようせず、後に何のメッセージも残さないことが多いため、どこまでいっても個人的なもので、他人を殺傷して自分の存在を誇示することが、そのまま人生の清算になりやすい。

 強いて言えば、テロリストが社会変革を叫ぶのに対して、通り魔は自己発散そのものに重点があるといえる。

テロリストより孤立する通り魔

 この区分けに沿っていうと、これまで日本でも政治的、宗教的なテロはあったが、諸外国と比べると圧倒的に少ないといえるだろう。

 なぜ、日本ではテロリストではなく通り魔が目立つのか。一言で言えば、社会に破壊衝動を抱きやすい者を吸収する場が、日本ではほとんどないからだ

 日本では社会に適応するのが難しい者が家族・親族に世話されることが多いが、身内でもあくまで独立した個人として扱う欧米圏では、成人後は家から追い出されることが珍しくない。そのような場合、安定した職がなく、また公的支援も受けず、孤立した個人に居場所を与える役割を、宗教関係者や慈善団体が担うことが多い。

 しかし、全てがそうではないが、それらのなかには過激な説法をするイスラーム聖職者(あるいはキリスト教の牧師)などが運営する団体もある。そうした人的ネットワークのなかで「君は悪くない。悪いのは世の中で、これを正す必要がある」と吹き込まれ、過激な思想を自分のものとする者は少なくない。多くの国では政治集会やデモなどに参加するハードルが日本ほど高くないが、これもリアルな結びつきを生み、他人と主義主張を共有する場になる。

 つまり、ネット空間だけでなくリアル空間で居場所を見つけることで、人生がうまくいかない者は過激思想に接触する機会が生まれやすいといえる。そのため、たとえ犯行そのものは単独のいわゆるローン・ウルフ型だったとしても、テロリストの多くは特定の勢力の影響を受けている。ボストン・マラソン連続爆弾テロ事件(2013)の犯人ツルナエフ兄弟も、今年3月のNZクライストチャーチのモスク銃撃事件のタラント容疑者も、この点でほぼ共通する。

 

 これに対して、日本の場合、もともと無宗教な人が多いこともあって、宗教施設がコミュニティになることは少なく、また政治活動に参加する人も多くない。これは一般的な社会生活を送る人でもだが、ひきこもりだったりすればなおさらだ。

 このように負のエネルギーを集積する場がない(それがあった方がよいと言っているわけではない)ことは、「世の中への報復」を意識した者が単独で、しかもメッセージなしに凶行に及ぶ土台になる。日本でテロリストより通り魔が目立つことからは、諸外国と比べても孤立しやすい社会のあり方をうかがえるのである。

孤立した凶行を防ぐために

 こうした日本社会に特有の状況は、破壊衝動にかられる者への対応で、他国にはない難しさを浮き彫りにする。通り魔が目立つことは、少なくとも同時多発的、組織的な犯行になりにくいことを意味する一方、テロリストの場合よりも行動を事前に予測・警戒することが難しい。

 どの国でも当局によるテロ対策は、拠点となる組織や指導者をマークすることが中心になる。そこには、過激な説法をするイスラーム聖職者やオピニオンリーダー的な白人至上主義者が含まれ、彼らを糸口に関係者や予備軍を洗い出すことが一般的だ。日本でも公安調査庁などは主にオウム真理教やその後継団体アレフ、革マル派、在特会などをマークしている。

 しかし、通り魔の場合、その予備軍はネット空間でもリアル空間でも孤立しやすいため、それまでに家庭内暴力を含む何らかの犯罪や迷惑行為が明るみになっていなければ、当局が事前に絞り込むことは不可能に近い。そのうえ、低所得、ひきこもり、メンタルな問題などはそもそも警察の担当ではなく、こうした問題を担当する社会福祉事務所などは治安機関との情報共有をほとんど想定していない。

 こうした情報不足は、通り魔事件の発生を事前に兆候を察知することを難しくする一因といえるだろう。

 だとすると、破壊衝動を隠せない者でさえ、良くも悪くも身内に支えられることが多い日本では、家族・親族による情報提供の重要性がこれまでになく増していることになる。身内意識に縛られる人は多いが、少なくとも危険な兆候がある場合、その情報を可能な限り共有することが、不当な暴力の蔓延を防ぐうえで欠かせないだろう。それは社会のためであると同時に、少なくとも身内自身が手を下すより、よほど理性的な判断のはずだ。

 ただし、あらゆる個人の問題を「家族が対応するべき」と決めつけたり、何かあれば家族・親族まで罵詈雑言を浴びせられたりする風潮が多少なりとも改められなければ、身内が事前に情報提供することすら難しくなりやすい。その意味で、通り魔による悲惨な犯罪を減らすためには、社会に適応するのが難しい者を抱える身内だけでなく、社会全体の対応もまた問われているといえるだろう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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