冷戦後の中国とロシアがアメリカを共通の敵としたのは25年前のコソボ空爆からだ
フーテン老人世直し録(751)
皐月某日
ロシアのプーチン大統領は5月7日、通算5期目の就任式に臨み、ウクライナ戦争について西側との対話を拒否しない姿勢を見せる一方、国民には結束してウクライナに勝利することを呼びかけた。プーチンの任期は2030年までとなる。
同日、欧州を歴訪中の中国の習近平国家主席は、最初の訪問国フランスから次の訪問国セルビアの首都ベオグラードに到着した。その日セルビアの新聞には「25年前の今日、ベオグラードの中国大使館をNATOが爆撃したことを忘れてはならない」とする習主席の署名入りの寄稿文が掲載された。
1980年にユーゴスラビアのチトー大統領が亡くなると、アルバニア系住民が多いセルビアの自治州「コソボ」を、セルビアから分離独立させようとするアルバニア人がセルビア人と武力衝突した。
1999年アメリカのクリントン大統領は、ユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領がアルバニア人を「民族浄化」していると非難、NATOは国連安全保障理事会の決議を経ることなく、セルビアの軍事施設に大規模な空爆を開始した。
5月7日深夜、アメリカ空軍のB2ステルス爆撃機がベオグラードにある中国大使館を精密誘導兵器で爆撃した。3人が死亡、26人が負傷したが、アメリカはCIAが古い地図を使ったための誤爆だと謝罪した。
責任を問われたCIA職員は解雇されたが、その職員は10年後に何者かに襲撃され殺された。アメリカの外交誌『フォーリン・ポリシー』は暗殺説を掲載したが、FBIは暗殺を否定している。
コソボ空爆当時ワシントンで議会情報を取材していたフーテンは、中国大使館誤爆の前から、アメリカのメディアが精密誘導兵器の誤爆のニュースを頻繁に流していたことに不思議さを感じていた。
精密誘導兵器が戦争で使われたのは湾岸戦争が最初である。ベトナム戦争でアメリカが使用した兵器、ナパーム弾や枯れ葉剤は、非戦闘員をも巻き込む非人道的な兵器として世界中に反戦運動が広がり、アメリカは国際的に孤立した。
その反省から考え出されたのが精密誘導兵器である。標的だけを正確に破壊すれば批判されないとアメリカは考え、湾岸戦争の報道は精密誘導兵器がいかに正確に標的に命中するかというニュースばかりだった。
それから10年近く経ち精密誘導兵器の性能は向上した。正確な数字は忘れたが、湾岸戦争の命中率が7割程度だったとすれば、コソボ空爆では8割を越していたと思う。ところがコソボ空爆では誤爆のニュースが相次ぐ。フーテンは何か意図的なものを感じていた。
そのため中国大使館誤爆を聞いて、このためだったのかと思った記憶がある。ただしこの手のニュースは真相が明らかにされることはないので、一瞬そう思っただけで記憶の隅にしまい込んだ。
ところがそれから25年経って、習主席は今回の欧州歴訪の日程を、中国大使館が爆撃された5月7日にベオグラードに到着するよう組んだのである。しかもその日はプーチン大統領の就任式の日だった。NATOとアメリカに無言の意思表示をしているようにフーテンには思えた。
セルビア人はスラブ系で宗教もギリシャ正教徒が多いのでロシアに近い。一方のアルバニア人は古くからバルカン半島に住む民族で宗教はイスラム教徒が多い。そのためコソボ紛争でロシアはセルビア側についた。中国もミロシェビッチ大統領とは親しい関係にあった。
中国大使館誤爆事件の時、アメリカの政治リーダーはクリントン大統領、ロシアはエリツィン大統領、そして中国は江沢民総書記だった。クリントンはソ連崩壊後初のアメリカ大統領で、民主主義を世界に広めるため「NATO東方拡大」に舵を切り、また世界最強の軍事力で「世界の警察官」となり、各地の内戦に介入した。
エリツィンはロシア連邦の大統領として共産主義体制を終わらせ、アメリカのジュニア・パートナー(格下の仲間)となって資本主義体制を目指したが、オリガルヒ(新興財閥)が生まれるなど格差が広がり、ロシア経済は大混乱に陥った。
江沢民は改革開放路線を推進して中国の国家資本主義体制を確立した。大使館爆撃事件に激怒しクリントンの謝罪の電話に出ようとしなかったが、さりとて世界最強の軍事国家とは戦争できない。不満だったが矛を収めるしかなかった。
翌2000年、ロシア大統領に就任したプーチンはアメリカとの協調路線を継続した。01年に誕生したブッシュ(子)大統領が9・11同時多発テロへの報復として「テロとの戦い」を宣言すると、旧ソ連領内に米軍基地の建設を認めるなど全面的に協力した。
またロシア経済の混乱を収めるため、オリガルヒの経営するエネルギー会社を国有化し、中国に似た国家資本主義体制を目指す。さらに03年に中国の国家主席となった胡錦涛との間で国境紛争を解決し、長年の中露対決に終止符を打った。
そしてプーチンは西側の軍事同盟であるNATOへの加盟を目指し、02年に準加盟国の扱いを受けるようになる。しかしアメリカのブッシュ政権はチェイニー副大統領をはじめネオコン(新保守主義)に取り囲まれた政権だった。
ネオコンの源流は左翼トロツキストで、それがベトナム反戦運動を嫌って右翼に転向した。反スターリン主義の立場から徹底してロシアと敵対する。そのためブッシュはクリントンが始めた「NATO東方拡大」をさらに強力に推し進めた。
1999年にはクリントンが主導したポーランド、ハンガリー、チェコの加盟が実現し、次いで02年にバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ルーマニア、ブルガリア、スロバキア、スロベニアの加盟が決定された。
ロシア国内では「NATO東方拡大」に軍部や議会が懸念を表明し、プーチンの対米融和路線は批判されたが、プーチンはNATOの軍事同盟色を薄め、昔ながらの対ソ敵視を転換させようとしていた。しかしプーチンは裏切られた。
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