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キノコ雲が町のトレードマークで誇り。長崎にもかかわる原爆を作るために生まれた町に足を踏み入れて

水上賢治映画ライター
「リッチランド」より

 キノコ雲がシンボルマークとしていたるところに掲げられ、「原爆は戦争の早期終結を促した」と核兵器を誇りとする町がある。

 アメリカ・ワシントン州南部の閑静な郊外にある町、リッチランド。

 この町は第二次世界大戦時、秘密裏に進められたマンハッタン計画の核燃料生産拠点となった「ハンフォード・サイト」で働く人々とその家族が生活するためのベッドタウンとして作られた。

 日本とは無縁ではなく、1945年8月9日、長崎に落とされた「ファットマン」のプルトニウムはハンフォード・サイトで精製されたものだった。

 そのような歴史があり、先で触れたように“キノコ雲”のマークが町のいたるところに掲げられ、地元高校のフットボールのチーム名は「リッチランド・ボマーズ」、そして「原爆は戦争の早期終結を促した」と口にする人は少なくない。ただ、その一方で多くの人々を殺戮した事実を前に認識を新たにした人たちもいる。

 また「ハンフォード・サイト」はすでに稼働終了。現在はマンハッタン計画に関連する研究施設群として「国立歴史公園」に指定され、アメリカの栄光を見ようと多くの観光客が訪れる場所となっている。2000年代以降はワイン産業が急成長して、いまではワインの名産地でそれ目当てに訪れる人も多い。

 その一方で、設立当初から土地の放射能汚染が叫ばれ、いまも核の廃棄物の人体の影響への不安を抱えながら住んでいる人がいる。さらにハンフォード・サイトはもともとネイティブアメリカンから略奪した土地。いまもネイティブアメリカンが、核の汚染を完全に取り除いた上での土地の返還を求めている。

 ドキュメンタリー映画「リッチランド」は、このような一筋縄ではいかない町に深く分け入っていく。

 ともするとよそ者は排除されてもおかしくない地に、足を踏み入れたのは、縁もゆかりもなかった女性映画作家のアイリーン・ルスティック。

 なぜ、この地を訪れることになったのか?現地で何を感じ、作品を通して何を伝えようとしたのか?

 彼女に訊く。全五回/第四回

「リッチランド」のアイリーン・ルスティック監督   筆者撮影
「リッチランド」のアイリーン・ルスティック監督   筆者撮影

わたしの作品作りにおいて重要なのは、いろいろな場所や人と出会って、

わたし自身が学んでいままで知らなかったことを知るということ

 前回(第三回はこちら)、まず本作を作るに当たりリッチランドという町のことをきちんとリサーチして、「リッチランドの人々と辛抱強く人間関係を構築して、コミュニティのリスニングを数年かけて行おうと思いました」と明かしてくれたアイリーン・ルスティック監督。

 リサーチをしていく中で、作品の方向性やヴィジョンを考えただろうか?

「いや、作品作りにおけるヴィジョンは思い描いていませんでした。

 わたしは作品作りにおいて、はじめにあまりヴィジョンや方向性をもって取り組むことはありません。

 ヴィジョンや方向性をある程度定めてしまうと、どうしてもそこに寄せていって物事を見てしまうところがある。

 そうなると、その方向性に関することだけをどうしても集めようとしてしまうところがある。

 だから、いつも脚本やプロットもなしで企画を始めます。

 唯一あったヴィジョンとしては、向き合う題材やテーマなどから考えて、まあ5年ぐらい、もしくはもっと完成までは時間がかかるかなといったことぐらいでした(笑)。

 わたしの作品作りにおいて重要なのは、いろいろな場所や人と出会って、わたし自身が学んでいままで知らなかったことを知るということです。

 そのためにももちろんリサーチはするんですけど、その過程で得た知識をもって『この町はこういう町だ』といったように先入観をもってみないように気をつけています。

 なるべくまっさらな状態で現場に入って行くように心がけています。

 もちろんリサーチの段階でいろいろな疑問が自分の中に出てくることは確かです。

 その疑問をもって現場には入るんですけど、そのことについて質問するにしても、まずは現場で自分でいろいろと探ったプロセスをもって聞くようにしています。

 そのように地道にこつこつと取材して、なにかひとつの真理にたどりつくのが、自分にとっての映画作り。ですから、はじめから誰に会うか決めていなかったですし、どういう構成にしようかと事前に考えてはいませんでした。

 編集にとりかかるまでは確定したことはなくて、ヴィジョンも方向性も考えていませんでした」

「リッチランド」より
「リッチランド」より

まるまる一日はアーカイブに目を通すというのがルーティーン

 では、どのようにリサーチして取材を進めていったのだろう?

「わたしの場合、過去の作品もそうなのですが、まず映画作りの始まりはアーカイブ映像をみることからスタートするんです。

 今回もそうでした。

 まず、町に資料館があったので、そちらに通って、町についての映像や資料に目を通すことから始まりました。

 リッチランドに何度も何度も取材で訪れることになるんですけど、毎回訪れた初日はその資料館に足を運んで、まるまる一日はアーカイブに目を通すというのがルーティーンでした。

 そうやって通っているうちに、リッチランドのアーカイブについてよく知る地元のアーキビストと偶然にも知り合ったんです。

 その出会いがひじょうに大きくて。そのアーキビストといろいろと話していくうちに、そういうことに興味があるなら、この人に会いに行くといいよとか、このことなら、この人が詳しいとか、人を紹介してくださったんです。

 そこで紹介いただいた人から話をきくことで、町のことをより知ることができました。

 そのようにして取材の範囲がどんどんと広がっていって、リッチランドとハンフォード・サイトについて多角的にとらえることが可能になっていきました」

(※第五回に続く)

【「リッチランド」アイリーン・ルスティック監督インタビュー第一回】

【「リッチランド」アイリーン・ルスティック監督インタビュー第二回】

【「リッチランド」アイリーン・ルスティック監督インタビュー第三回】

「リッチランド」ポスタービジュアル
「リッチランド」ポスタービジュアル

「リッチランド」

監督・製作・編集:アイリーン・ルスティック

公式サイト https://richland-movie.com/#

全国順次公開中

筆者撮影の写真以外はすべて(C) 2023 KOMSOMOL FILMS LLC

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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