黒沢清監督の傑作「蛇の道」もこの人の手。1月に逝去した伝説の映画編集者を偲んで
1977年から続く、<第46回ぴあフィルムフェスティバル2024>の京都開催が11月9日(土)からスタートした。
"映画の新しい才能の発見と育成"をテーマに掲げるPFFがメインプログラムに置くのは、自主映画のコンペティション<PFFアワード>。すべての未来の映像作家に開かれた同部門は、これまで数多くの新たな才能を見出し、のちにプロとして活躍する監督は180名を超えている。
今年は19作品が入選。9月に終了した東京開催では受賞結果が発表され、21歳の川島佑喜監督のドキュメンタリー映画「I AM NOT INVISIBLE」が見事にグランプリに輝いた。
新たな若手作家を見出す<PFFアワード>とともに、PFFでは、毎年、国内外の多彩な映画を招待上映している。世界を代表する監督の特集をはじめ、映画祭ならでは、いや映画祭でなければできなかったと思われる企画を実現し、貴重な映画と出会う場を作ってくれている。
今年の東京開催での招待作品は6企画。その一つが8ミリフィルムで撮る自主映画熱がピークを迎えていた1980~90年代の自主映画に焦点を当てた「自由だぜ!80~90年代自主映画」だった。
同企画内では、8ミリの自主映画ではないが、90年代の自由な映画づくりを象徴する2作として黒沢清監督の「蛇の道」と「蜘蛛の瞳」が特別上映された。この上映は、今年1月に逝去した映画編集者・鈴木歓(かん)氏の追悼上映の場でもあった。
そして、京都開催でも「蛇の道」と「蜘蛛の瞳」の特別上映が決定。鈴木卓爾監督の「嵐電」も加わって、京都に所縁のあった映画編集者・鈴木歓氏を追悼する。
説明しておくと、鈴木歓氏は日本を代表する映画編集者。若松孝二、廣木隆一、石井聰亙、大友克洋など名だたる監督たちの作品の編集に携わった。中でも黒沢清監督とは縁が深くオリジナルビデオ「勝手にしやがれ!」シリーズ、「CURE」、そして特別上映される「蛇の道」「蜘蛛の瞳」も手掛けている。
また、ここ数年、新たな若き才能を次々と輩出している京都芸術大学映画学科で2011年から後進の指導にも当たっていた。
そこで鈴木氏と親交があり、京都芸術大学映画学科で同じく学生の指導に当たっていた福岡芳穂監督と映画配給・宣伝会社「マジックアワー」の代表、有吉司氏の二人に「映画編集者・鈴木歓」について語ってもらった東京開催から始めた連載を再開する。全五回/第四回
現役の映画編集者にきいてみたら……
前回(第三回はこちら)は、鈴木氏が「脚本をまったく読まない」と語っていたことについての話で終わった。
このことについてもう少し話を続ける。
有吉「ちょっと面白かったのが、少し前に井浦新さんが主演を務めたアメリカ映画『東京カウボーイ』の配給宣伝を手掛けたんですけど、この作品の編集は日本人の井上ヤスさんという編集者で。
少し話す機会があったので、歓さんの『脚本を読まない』という話をしたんですよ。『脚本を読まないで、出来上がってきた素材をみてつなげていった』という話を。
そうしたらものすごく驚いていました。
ただ、『ちょっとやってみたいかも』と井上さんは興味を示していたんですよ。
それで彼はニューヨーク在住なんですけど、最近メールでやりとりしたら、『仲のいい監督の作品があるので、脚本を読まないでつなぐということを試してみようと思います』と書いてありました。
なんかそのメールの文面を前にしたとき、いま現役でバリバリにやっている映画編集者に、歓さんが刺激を与えた気がしてちょっと嬉しかったですね。
あとは改めて、脚本を読まないというのは映画編集者としてはなかなかないことなんだろうなと思いました」
フィルムでの編集経験しかなかった。
学生たちに教えるとなったとき、彼はデジタルの編集を猛勉強した
福岡「実際に脚本を読んでいたかいなかったかはわかりません。
ただ、少し前に話しましたけど、読んでいないからといって手を抜いていたわけではないんですよね。いいかげんだったわけでもない。
そうでなければ、これだけ錚々たる監督たちから声はかからないでしょう。
むしろ映画編集に対しては常に真摯に向き合っていたんじゃないかと思います。まあ、前も触れたように『編集の仕事なんてどうでもいい』といって姿を消したことはありましたけど(笑)。
なぜ、そう思うかというと、僕の誘いで京都芸術大学で学生たちに教えることになるのだけれど、彼が映画界を離れていた間に映像業界は大きく変わっていて、デジタルでの編集に移行していました。
歓ちゃんはフィルムでの編集経験しかなかった。つまりデジタル編集は未経験だったんです。
だから、学生たちに教えるとなったときに、彼はデジタルの編集を猛勉強したんです。
もう一度、編集とはなんぞやと自らに問い直して、デジタルでの編集とはいったいどういうことなのかを一から突き詰めていったところがあった。
フィルムでの編集とデジタルの編集と、歓ちゃんの中でおそらくかなりのギャップがあったと僕は推察します。
そのギャップの根本みたいなところまで立ち戻って、それこそいろいろと整理し直して、編集とはなんぞやということを改めて考え抜いたのではないかと。
で、前にも話に出た、彼が学生たちのために作ったテキスト『映画編集の密かな愉しみ』の冒頭で彼はこう書いている。
『映画編集の理論に正解はありません』と。
つまり、編集は自由であり、何かに縛られるものではない。
映画文法上はこうだよねとか、脚本の構成からいくとこういう映像のつなぎだよねとか、そういう定石のようなものは確かにある。
でも、そこから外れても正解は無数にあるんだと考えていた。
デジタルとフィルムの編集の話に戻すと、歓ちゃんはデジタルの編集は、映画編集において自由で縛られない、そのことを可能にしてくれるものと考えたところがあったと僕は思っています。
フィルムは一コマ一コマ確認して切ってつないでを繰り返す。でもデジタルならばタイムライン上に載せれば、すぐつなげるし、順番をすぐに入れ替えることも元に戻すことも簡単にできる。
だから、学生にもとにかく自由に変に型にとらわれずにいろいろと編集して試してみればいいとよく言っていました。
たとえば、ゼミで1本作品を完成させることになったとします。
撮影をして素材が集まって、じゃあ編集となったとき、通常は監督が一番わかっているということで、監督が中心になって編集していく。
でも、歓ちゃんの場合は、『監督が編集しちゃダメ、監督が一人で編集しちゃダメ』ということで始まって、ゼミ生たちに素材を渡して、それぞれ勝手にまずは編集をさせる。すると当然ですけど、何バージョンもの作品ができる。
ある学生は30分ぐらいの短編なのに、別の学生は大長編になっていたりする。
当初の脚本通りのストーリーになっている子もいれば、まったく別のストーリーに変わってしまっている子もいる。
すると『どのバージョンにするのか、どれがいいのか』で学生たちは決められなくなる。でも、歓ちゃんは『それは自分たちで決めなよ』とどこ吹く風で(笑)。学生たちはそこでまた戸惑うといった感じになる。
ただ、その編集のプロセスの中で、学生たちがいろいろなことを発見していくんですよね。
そこで彼らひとりひとりが得るものってすごく大きかったんじゃないかなと思います。
だから、僕はなるほどなと思って。自分の関わるゼミに関しては、すべて歓ちゃんの方式にしたというか。なるべく監督が編集しない、何人かが編集して何パターンか作って、それを比較して検証してみるといった形にしていました。
話をまとめると、『映画編集の理論に正解はありません』という言葉にあるように、映画編集は自由で何ものにもとらわれない。そのひとつが脚本にとらわれないということで、『脚本は読まない』という発言につながったのかなと考えます」
(※第五回に続く)
「第46回ぴあフィルムフェスティバル in 京都2024」
期間:11/17(日)まで
会場:京都文化博物館(京都府京都市中京区東片町623−1)
招待作品部門<映画編集者・鈴木歓さんを偲んで>
「嵐電」 11/12(火)18:00~ ゲスト:鈴木卓爾氏(監督)
「蛇の道」「蜘蛛の瞳」(黒沢清監督2作品上映)
11/13(水)14:30~
ゲスト:北小路隆志氏(映画批評家、京都芸術大学教授)
PFF公式サイト https://pff.jp/46th/
京都開催の詳細はこちら https://pff.jp/46th/kyoto/