我々は「ぬくもり」と「効率」のどちらを求めるのか?―左か右か、ではなく若者たちに学ぼう―
年初なので今回は現実から離れて大きなテーマを考えてみたい。「ぬくもりか効率か」というテーマだ。
「昔はよかった」「最近は世知辛い」とよくいわれる。個人的には『三丁目の夕日』の時代に幼年期を過ごした。成人してからは昭和の成長期の官庁や大企業を経験した。課員総出で課長の引っ越しの手伝い、みんなで社員旅行など楽しかった。一方で昭和の日本にはコネや口利きや非合理が残っていて事務はアナログ、非効率の塊だった。
日本に限らず世界はますます清潔に、透明に、効率的になっていく。一方で、冷たく画一的でつまらなくなっていく。
これに対し政策、政治の世界ではいわゆる左翼の人がぬくもり、人間らしさを主張し、それに影響された保守政治家までがポスト資本主義を唱え、新自由主義を攻撃する。だが、どちらも無意味な主張に見える。我々は村のよろず屋よりもコンビニが好きだし、効率化は安さを意味する。かくして画一化は止まらない。なぜなら資本主義と民主主義には画一化、そして規格化がビルトインされているからだ。
〇生活の画一化
マンションの物件比較サイトを眺めると、立地や建設会社を問わず、全て同じような部屋ばかりだ。限られた面積でより多くの部屋数が取れて、建物工事がしやすい間取りはどうしても似たパターンになる。これらが人間にとって最も住みやすい間取りかどうかわからない。マンションはいくら高級そうに見えても、産業革命以降に始まった大量生産と“規格化”の産物である。注文建築で造られた戸建て住宅にはかなわない。だが多くの人はマンションでいいと考えている。
こうした現象は住居だけではない。車や家電製品もそうだし、さらに言えば、学校も会社もレジャーも、私たちの生活の多くは統一様式、つまり規格によってしばられている。
だが、幸か不幸か、私たちはそれに気がつかない。慣れてしまったからだ。いや、それがなくなるとむしろ不便に思う。人間は規格のもとにしばられることで安心し、快適と感じる。このあたりは首輪を放った犬が一瞬は元気にその辺を走り回るが、やがて飼い主に首輪をかけてくれと寄って来る姿に似ている。
〇規格化と功利主義
こうした“規格化”の源流にはもちろん大量生産の技術や経済性があるのだが、社会思想の歴史をたどるとジェレミー・ベンサムの『最大多数の最大幸福』に由来する。そこでは“「豊かさ」とはモノ・金を量的に追求すること”だった。この思想が今の大量生産と大量消費のもととなった。
〇人間も“規格化”
ベンサムは1748年から1832年を生きた人物だが、彼が思いついたものの一つに「パノプティコン(一望型円形収容所)」がある。
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