映画『ナイトビッチ』。育児してみたら、自分も動物、子供も動物だった
「私の体から出て来た子に母乳をあげる。自分の動物ぶりにびっくりしています」
見終わると、この友だちの言葉を思い出した。
普段、人間っぽく上品に文化的に振る舞っているけど、妊娠、出産、授乳というのは肉体と本能剥き出しの「動物的な体験」だった、ということだった。
タイトルの『Nightbitch』は「夜の雌犬」の意。ポスターを見ると「MOTHERHOOD IS A BITCH」とあって、こちらは「母性は雌犬」の意。“子供を持つと自分が雌犬(動物)になったように感じる”ということか。
■子供に忙殺され野生化する母親
動物は母親だけでない。
目の前にいる我が子も動物そのものだ。
お腹が空いた、眠い、おむつを替えろと泣き叫ぶ、本能と欲望だけで動く生き物。ゲロだってまき散らし、糞尿だって垂れ流し、手でぐしゃぐしゃやって、油断するとそれを口に持っていきかねない。人間を人間たらしめている社会的なルールを一切身に着けていない配慮ゼロ、マナーゼロ、民度ゼロの存在である。
もちろん、人間にはこれからゆっくりなっていくのだが、それまでは人間(母親)の方が動物のレベルへ落ちていくしかない。
動物のような我が子に忙殺されていると、自分も動物になっていく。
そもそも化粧やおしゃれをする時間はなかったので、毛深くなってきてもムダ毛を処理する暇はない。仕事を辞めたせいか頭の回転が鈍くなる一方で、おむつを気にするせいか嗅覚が研ぎ澄まされてくる。
※以下、少しネタバレがあります。白紙の状態で見たい人は読まないでください
■覚醒した妻と“寝言”を言い続ける夫
こうして、子育ての“こんなはずじゃなかった”現実に直面して目覚めていく主人公と対照的に、夫の方は何も変わっていない。人間のままだ。
相変わらず仕事に行き、給料を稼いで帰宅する毎日。疲れた妻をねぎらうために、何なら残業をせず、子供を風呂に入れることを買って出る。これで役割分担を果たしているつもりだし、良き父、理解ある夫のつもりである。
その勘違いぶりは、「いやー、子供とずっと家に居られる君がうらやましいよ」と主人公の神経を逆なでしてみせるところに表れている。
この言葉に妻は当然、殺意を覚えるわけだが、ここでぐっとこらえる。良き妻であるためではない。“どうせこいつ(男)にはわからない”という諦めからだろう。
妊娠と出産は男は経験できないし、母性を持つこともできない。男にも父性があるが、それは妻や子への共感や理解によって生まれた外部的なもので、母性のように体の内部から湧き上ってくる本能的・肉体的なものではない。
自分が動物になってみると、人間のままの夫が進化を停止した浅い生き物に見えてくる。
■なぜママ友が重要になるのか?
妊娠と出産と子育てによって女は覚醒し、男は取り残される。
でも、これ、男からしてもどうしようもないギャップで埋めようがない。いわゆる「イクメン」というのが男の最高の到達点で、これ以上は無理なのだ。
人間としての頭脳と感情をフル動員して妻に共感し理解をすることはできるが、動物レベルで妻と繋がることは無理なのだ。
だからこそ、ママ友が重要になってくる。
主人公は元ストリッパーなどママでなければ決して出会うことがなかったろう女性たちと知り合う。
親友になるわけではない。連帯して母の権利を主張するわけでもない。ママ友同士の関係性はそんなに強いわけではないのだが、彼女たちには、妊娠、出産、子育ての“戦友”という揺るがない結び付きが存在する。
で、その戦いは女たちそれぞれの事情次第の“個人戦”であることにも気が付いているので、女同士でツルまず、夫の悪口を言い合わず、フェミニズム的な主張もしない。
そもそも、戦いの毎日にそんな暇はない。
男は“どうせわからない”存在としてそこにいる。切り捨てても敵対してもしょうがない、という諦めの境地こそが、女の特異性と強さを際立てている。
“男で、ごめんなさい”と謝るしかない作品だ。
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※写真提供はシッチェス国際ファンタスティック映画祭