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映画『Body Odyssey』。人には自分の体を自由に使い、表現する権利がある

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
体作り=彫像なのだろう。芸術家のアトリエのようなジムで体を作るモナ

ドーピングは良くない。

ステロイド剤には恐ろしい副作用がある。『Body Odyssey』にも心不全で急死するボディビルダーが出てくる。何より、薬物を使って筋肉を増強することは不自然であり、フェアでない。

しかし、リスクを承知でドーピングをするボディビルダーがいて、それが黙認されている世界があることをこの作品で初めて知った。

主人公モナがいる世界がそうである。

『2001年宇宙の旅』が『2001:A Space Odyssey』であるなら、『Body Odyssey』は“肉体崇拝の旅”。肉体とその可能性に惚れ込んで、限界を超えてしまったボディビルダーの物語である。

■競技?ショー? ボティビルはどっち?

調べてみると、ドーピングを禁止する勢力と黙認する勢力の2つにボディビル界は分かれているそうだ。

違いは、考え方の違い。禁止する方はボディビルを「競技」として見ており、黙認する方は「ショー」として見ている

競技の方はコンテスト参加者にドーピング検査を課すが、ショーの方は課さない。当然、ショーの方にはドーピングをしている人が参加する可能性がある。

『Body Odyssey』の1シーン
『Body Odyssey』の1シーン

これ、一見すると、競技の方が良いことばかりで、ショーの方が悪いことばかりのように見える。前者が「健康的」で「自然」で「フェア」なのに対し、後者の方は「不健康」で「不自然」で「アンフェア」のように見えるからだ。

しかし、そのショーの方に命を懸ける者――ドーピングによる健康リスクを負っているから文字通り、命懸け――もいる。

モナのように。

※以下、ほんの少しネタバレがあります。白紙の状態で見たい人は読まないでください

■ショー「だから」過酷になる体作り

コンテストを3カ月後に控えるモナの毎日は過酷だ。7kgの減量と筋肉の増量の両立という、生理的に不可能に見える目標を達成せねばならない。

ショーなのだから体作りが過酷ではない、というのは間違いだ。

なぜなら、スポーツには肉体の生理的な限界というのがあるが、ショーにはそれがないから。限界はドーピングによって超えることができるから

『Body Odyssey』の1シーン
『Body Odyssey』の1シーン

健康を害するトレーニングプランを組むなんてスポーツの精神に反しているが、ショーであればそうではない。ドーピングしている時点で健康リスクは折り込み済みなのだから。絶食し、注射を打ち、トレーニングをし、日焼けサロンとサウナと心理カウンセリングへ通う。

ドクターストップを無視して、モナはステロイド剤の増量を決める。すでに8年間も使用し続けていて深刻なダメージを警告されたにもかかわらず。

この時ドーピングの注射器を握るのが、専属トレーナーである。

■不健康だが自由な肉体崇拝の旅

この専属トレーナーという存在が興味深い。

トレーナーとモナの関係は、師匠と弟子のようにも、父と娘のようにも、男と女のようにも見えるが、そのいずれでもないと同時に、そのすべてである。。

スポーツ根性ものの漫画で見たような上下関係ではなく、彼のスパルタ方式にモナが絶対服従しているわけではない。互いにプロとしての信頼関係しかなく、過度の思い入れがない

トレーナーの方には、モナのことを人間としてではなく“芸術作品”として誇りに思っているような冷たさがある。その冷たさが容赦なくトレーニングを遂行させる、という意味では有利になる。モナの方にも脚光を浴びるのは自分、という自負がある。

『Body Odyssey』の1シーン
『Body Odyssey』の1シーン

そう、結局プロのアーティスト同士なのである。

モナは体を作っていく芸術家であると当時に、全リスクを一身に負う素材でありモチーフである。それを彫って削って形作っていく者という意味で、トレーナーも芸術家である。

寿命を縮めてまでショーに徹する、というのは理解できないし、引き換えにモナが手に入れた「完璧な美」というものも美しく見えない

しかし、私のような部外者の目に、いかに不健康で不自然でアンフェアに映っても、リスクを負う本人が自由意思で行っていることを止める権利はなく、プロのアーティストとしての努力――たとえそれが破滅的なものでも――には敬意を払うしかない。

プロの自由な創作に口を出してはいけない。人には自分の体を自由に使って表現する権利がある。そして、芸術に狂気はつきものなのだ。

追記:モナ役のジャクリーン・フックス(Jacqueline Fuchs)は世界的なボディビルダーで、検索すると彼女の活躍ぶりが見られる。演技の拙さを指摘する声もあるが、未知の世界を覗き見る驚きの方が勝って気にならなかった。

舞台挨拶に現れたグラッツィア・トリカリコ(Grazia Tricarico)監督(右)。撮影は筆者
舞台挨拶に現れたグラッツィア・トリカリコ(Grazia Tricarico)監督(右)。撮影は筆者

※写真提供はシッチェス国際ファンタスティック映画祭

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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